昭和恐慌の原因や恐慌時の井上大蔵大臣(浜口内閣等)の姿勢

昭和恐慌

 

昭和恐慌(しょうわきょうこう)は日本で発生し西暦1930年(昭和5年)から1931年にかけて特に状態が悪化した恐慌のことです。恐慌は急激に景気が悪化する現象で株式市場においては株価が暴落したり、たくさんの企業が倒産したり、銀行が休業や閉鎖に追い込まれたり取り付け騒ぎが発生したり、失業者が非常に増加するような場合が多いです。

 

昭和恐慌の原因

 

昭和恐慌が発生した理由としてよく挙げられるのは世界恐慌の影響です。1929年10月にアメリカの株式市場で株価が暴落した後アメリカでは景気が急激に悪化しました。上に書いたように企業倒産、銀行の破たん、失業者の増加につながりました。アメリカ国内の景気悪化にとどまらず、米国の消費活動に依存していた様々な国が大幅に輸出額を減らし景気悪化は世界規模で拡大することとなります。

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日本も例外ではありえず、輸出品として代表的な生糸などが売れなくなっていきました。世界中で消費活動が低迷したため貿易業をはじめとして日本国内の産業も打撃を受けることとなりました。昭和恐慌となった、あるいは昭和恐慌の状態を悪化させた他の理由としては当時の日本の政権がおこなったデフレーション(物の値段、物価が下がる)につながる政策もよく指摘されているようです。1930年当時は浜口雄幸(はまぐちおさち)内閣でしたがこの年の11月には若槻礼次郎(わかつきれいじろう)内閣になっています。両内閣を通じ大蔵大臣を務めていたのは井上準之助(いのうえじゅんのすけ)という人物でした。浜口首相や井上蔵相が行ったのは金本位制への復帰、金解禁(きんかいきん 金輸出解禁とも呼ばれます)の実施でした。また政府が一年間で使うお金の額、予算額を減らすという方針も打ち出しました。金本位制になることによっておかねと金(ゴールド)を交換できるようになるのですが、この仕組みですと日本のお金を発行する銀行、日本銀行はお金を発行する量を制限しなくてはならなくなります。国内にあるゴールドと交換できる程度のお金しか発行できません。ゴールドの量以上にお金を発行するとゴールドと交換できなくなるからです。日本は世界恐慌によって輸出が伸びず、輸入が増え他国との支払いのためゴールドがどんどん国外に流出し、国内にあるゴールドが減少しました。それに伴い金本位制にする以前に比べ世の中に出回るおかねの量が減りデフレーション、物の価格が低下していきました。また政府によって一年間に使われるお金の額が減らされたため(緊縮財政政策と言います)余計景気を悪くする結果となりました。

 

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井上大蔵大臣の姿勢

 

1930年に大変景気が悪化して議会内でも政府の責任を追及する声は強まったようです。当時の野党である政友会からは当時の政府の緊縮財政(政府の予算を減らす財政政策)や金解禁といった政策に対する批判も出ていました。しかしこのような野党からの批判を浴びても井上大蔵大臣は当時の日本国内の恐慌状態について、世界恐慌の影響だという判断で、金解禁や緊縮財政といった政策を変更する考えを示しませんでした。地方で公債を発行し失業者対策として土木工事などの公共事業を行うことや中央政府が対策に努力することを否定はしなかったようですが、その一方不景気対策のため日本政府が多額の国債を発行しお金を手に入れて熱心に公共事業を行うことについて世界恐慌のさなかにそのような「姑息こそく」なことをしても効果が出るとは思えないという見解も示していたようです。規模の大きな財政出動(この場合多額の予算を景気対策に用いること)を日本政府が行うという判断は結局しませんでした。対策をとるとは言っても規模の小さな対策にすぎなかったということのようです。

 

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前回の記事に続き今回も昭和恐慌に関する話ですが、今回は昭和恐慌の原因や大蔵大臣の姿勢、考えについて取りあげてみました。昭和恐慌がなぜすさまじい状況となったのか理由を知りたいと思ったのと当時の日本の指導者はそのようなひどい状況の時どんな対策をとろうとしたのか知りたかったためです。農産品の価格の下落を食い止めるための対策をしたとか農業従事者に低金利でお金を貸すようにしたといったことは調べている中で知ることが出来ました。ただし効果は乏しかったようです。やらないよりはましなのでしょうけれど。物価の下落を本当に食い止めようとするならデフレーション傾向を強めている金本位制度の中止が効果的だったのでしょうね。当時の野党、政友会も景気が著しく悪化している原因として当時政府が行っていた金本位制度への復帰や緊縮財政のことを指摘していますし、現在の視点で見てみると大変的確な批判のように感じます。当時の経済学はまだそれほど進んでいなかったため現在の価値観で当時の政府の経済政策を批判するのは後出しジャンケンだという指摘もあるようですけれど、このような政友会側の指摘を知ると担当する政権によっては実際の昭和恐慌よりも被害を減らすことが出来たのではないかという気もします。政友会総裁である田中義一さんの内閣が退陣した後、もう一つの大政党である立憲民政党の浜口雄幸内閣が誕生したわけです。政友会は原敬(はらたかし)内閣などもそうであったように積極的に国がお金を使う政策をとる傾向にありました。張作霖爆殺事件の対応で昭和天皇から叱責を受け田中内閣は退陣するわけですが、この爆殺事件が無ければ世界恐慌で受ける日本の影響に対しもっと有効な対策を田中義一内閣のもとでおこなっていたのかもしれません。事件が起こらなければ田中内閣は退陣していなかったでしょうから。河本大作大佐が犯人だったとしたならば彼は結果的に日本経済に大変な災厄をもたらしたということになるのではないでしょうか。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

昭和恐慌で大変なことになったという話「昭和恐慌による物価や輸出・輸入の変化と農家の状況について」はこちらです。

ここで出てくる井上さんが襲撃された話「血盟団事件とは?事件を起こした理由や井上日召についても」はこちらです。

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