薩英戦争とは?戦争のきっかけや戦争の結果について

薩英戦争とは

 

薩英戦争(さつえいせんそう)とは薩摩藩とイギリスとの間で行われた戦争です。西暦1863年、当時の元号では文久3年になりますが当時の暦で7月に戦争が起きました。

 

薩英戦争のきっかけ

 

1862年(文久2年)に薩摩藩藩主島津忠義(ただよし)公の父親である島津久光(ひさみつ)さんが地元の薩摩から京都に行き、朝廷に強く働きかけました。朝廷から幕府の政治を改革するよう要請してくださいというのが久光さんの求めていたことで、それに応じた朝廷は公家のかたを江戸に派遣することにしました。久光さんはそのお公家さんのお供という口実で一緒に江戸に行きお公家さんと共に朝廷名義で幕府の政治を改革するよう幕府に求めました。

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久光さんが幕府に対し要望を伝えた後江戸を出発し京都へ戻ります。東海道を京都に向かっていたのですが神奈川の生麦(なまむぎ)村で久光さんの行列に事情を理解できていないイギリス人たちが馬から降りて道を譲らず、久光さんの行列をひどく乱してしまいました。

そのようなイギリス人の振る舞いに対し、無礼であるという理由で行列の中にいた薩摩藩のお侍さんがイギリス人を斬りつけ、結果としてイギリス人お一人が亡くなってしまいました。怪我を負ったイギリス人もいたそうです。この薩摩藩関係者がイギリス人を襲った出来事は生麦(なまむぎ)事件と言われています。

イギリス側はこの生麦事件を受けて幕府と薩摩藩に強く抗議しました。イギリスに対する謝罪と巨額の賠償金を幕府や薩摩藩に求めます。揉めはしたのですが幕府は賠償金を支払いました。そのおかげで幕府とイギリスとの間で武力衝突が起きずに済んでいます。(幕府の対応によってはその危険性もあったようです)

 

薩摩藩の対応はどうだったかというとイギリスと交渉したものの話し合いが上手くいきませんでした。交渉の中でイギリスは薩摩藩に対し生麦事件でイギリス人を襲った薩摩藩関係者を罰する事や賠償金の支払いを求めています。

薩摩藩はイギリスの要求を結局は拒み、イギリスは薩摩藩の反応に対して武力行使をすると伝えています。更にイギリスは薩摩藩の船を奪うという行為に出ました。この行動に薩摩藩側は刺激され戦闘が始まってしまいました。

 

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薩英戦争の結果

 

イギリスの軍艦から砲撃を受けたことによる薩摩藩の被害は大変大きかったのですが薩摩藩も砲台からの攻撃でイギリスの軍艦に一定の被害を与える結果となりました。薩摩藩は降伏したわけではなく、燃料の乏しくなったイギリスの艦隊は戦闘が始まってから2日後に薩摩から引いていきました。横浜に帰ったのです。

その後薩摩藩とイギリスの間で戦闘は行われず、薩摩藩の家臣とイギリスの公使との間で交渉が行われました。交渉はすんなりとまとまったわけではありませんでしたが、薩摩藩が賠償金をイギリスに支払い、生麦事件でイギリス人を襲った薩摩藩関係者を処罰するということで薩摩とイギリスは講和を結びました。しかしその後薩摩藩関係者は逃亡したという理由で処罰されなかったそうです。

イギリスは薩摩藩の実力を評価し、薩摩藩もイギリスと実際に戦って西欧文明を更に取り入れる必要があるという思いを強くし、両者はその後関係を深めていくこととなりました。

 

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行列を乱したことによって発生した生麦事件はこのような戦争につながる結果となってしまいました。攘夷を実行した長州藩の事例と同様、幕末の重要な出来事ですし今回取りあげてみようと思いました。

薩摩藩との交渉が上手くいかないからという理由で薩摩藩の船を奪ってしまうイギリスの行動もいかがなものかという気はします。生麦事件でイギリス人に被害を与えておいて責任を認めようとしない相手だからということでイギリスは自分たちの行動を正当化したのでしょうかね。

個人的にはこの薩英戦争については詳細をほとんど知らず、これまで薩摩側が一方的に被害を受けすぐに降伏して終わったのかと思っていましたがそういうわけではなかったことを知り大変意外でした。当時の薩摩藩の軍備はそれなりに整っていたのですね。

また、相手の実力、能力が高いとわかるとイギリスは薩摩藩と友好関係を深めようという方針になったということですから、他国と良好な関係を作るためにも自らが一定の実力をつけることは大変重要なことなのだなと感じました。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

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