長州藩による外国船砲撃事件とは?事件の原因についても
長州藩外国船砲撃事件とは
西暦1863年(文久3年)の5月11日以降長州藩勢力が実行した他国の船に対する一連の砲撃事件のことです。
まず砲撃を受けたのはアメリカの船でした。しかしこの船は軍艦ではありません。商業用の船でした。この船は現在の山口県長門市の沖に停泊していました。長州藩勢力はこの停泊している船を真夜中に砲撃しています。砲撃は設置されていた砲台からも藩の保有する軍艦からも行われました。襲われた船、ペンブローク号はその沖合から逃げていきました。
その後5月23日、長州藩はフランスの軍艦が現在の山口県下関市の沖に停泊していたのを見つけ、この軍艦が関門海峡に来た時に砲台から攻撃しています。フランス軍艦は反撃しつつ海峡を通過しました。船に損害を受けただけではなく乗員に死亡者も出たようです。
5月26日、オランダの軍艦が関門海峡を通過しました。その軍艦に対しても砲台と長州藩の軍艦から攻撃を加えました。オランダ側も砲撃し撃ちあいになったそうです。オランダ軍艦は損害も大きかったようですが沈没には至らず海峡から急ぎ離れていきました。オランダ側に死亡者が出ています。
この一連の攻撃が長州藩による外国船砲撃事件です。
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外国船砲撃事件の原因
長州藩勢力は独断で外国船を攻撃したわけではなく、形式上は幕府から攘夷行動の命令が出たためその命令に従って武力行使したということになります。
1863年江戸幕府14代将軍、徳川家茂(いえもち)公は幕府の将軍としては何百年ぶりに上洛し(京都におもむき)朝廷から外国勢力に対する攘夷(武力を使って追い払う、撃退する行為)を実行するよう指示を受けました。朝廷に逆らうことが非常に困難な状況の中やむを得ず江戸幕府は同年5月10日を期限に攘夷を実行しますと朝廷と約束します。
約束した江戸幕府は各藩に対し攘夷を行うよう命令を出しました。結局命令を実行したのは長州藩だけだったのですが、幕府の指示に従ったということになります。
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以上のような経過から砲撃事件の原因は一つには当時の朝廷から攘夷行動に関する強い要求があったということ、二つ目にはその朝廷の要求に幕府が応えそれぞれの藩に攘夷を命令したこと、この二つが直接の原因ということになります。
当時の朝廷側が強く攘夷を幕府に要求した背景には長州藩をはじめとする攘夷派勢力によって朝廷側に対しおこなわれた様々な働きかけがあります。そのため、元々の原因としてはそのような攘夷派の勢力が様々な方法を使って朝廷の方針を自分たちの望む方向にしたからとも言えるかと思います。
外国からの報復
6月に入りアメリカの軍艦がまず関門海峡付近で長州藩の軍艦を攻撃、長州藩は軍艦を撃沈され大きな被害を出しました。双方に死亡者も出ています。また同月にフランスの軍艦も海峡に入り長州藩の砲台を破壊しています。長州藩はこの時も敗北しました。7月に入り幕府は長州藩に対し外国船の攻撃をしないよう指示を出しました。
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幕府からの攘夷命令が出たことを受けて長州藩が命令を実行したわけですが、幕府が各藩に対し攻撃命令を出したことを諸外国は承知していなかったということでしょうか。一番実行に移しそうな長州藩の支配している地域で船を停泊していたら、それはやられてしまう危険性が高いでしょうね。
長州側の攻撃に対しアメリカ、フランスは報復して長州は惨敗する結果となりました。攘夷を熱心に長州藩藩主に進めていた久坂玄瑞さんら、攘夷派の長州藩士たちはこの敗戦で長州藩から攘夷行動を推進した責任を問われて処罰されたということでもないようです。よくわかりませんね、なぜなのでしょう。藩に多大な損害が出る結果になってしまったんですが。
長州藩の一連の攻撃行動について当時の朝廷は評価したということですから、朝廷も客観的に情勢を見極めることのできる雰囲気ではなかったのでしょうね。客観的に情勢を見ればそもそも朝廷は幕府に攘夷を指示することなどきっと無かったでしょうから。
今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。 <(_ _)>
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