四国艦隊下関砲撃事件とは?事件の原因についても

四国艦隊下関砲撃事件とは?

 

イギリス、アメリカ、フランス、オランダの四カ国が長州藩の領地である下関を攻撃した出来事です。西暦1864年(元治元年)の8月に四カ国による攻撃が行われました。四か国それぞれから軍艦が参加し艦隊を編成しています。その艦隊が横浜を出発し下関に到着。長州藩の沿岸に備えてある砲台を攻撃しました。

長州側も応戦しましたが戦力に大きな開きがあったようで長州側の装備した砲台は破壊されたり、上陸した四カ国側の兵員に占拠されます。長州側が砲台を使用することは出来なくなりました。この武力衝突で長州藩は大敗北となっています。

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戦闘が始まって数日で勝敗は明らかとなり長州藩側も急ぎ講和の用意を行います。四カ国側のほとんどの要求を受け入れ8月18日に講和が成立しました。講和条件の中には多額の賠償金や下関海峡の自由な航行を認めることなどが含まれていました。この講和交渉に幕末の有名人、高杉晋作さんが参加していたそうです。

多額の賠償金については長州が払うのではなく幕府が支払うことになってしまいました。それについては長州が外国船を砲撃したのは幕府が命令したからだという弁明が長州側でされたからだそうです。

 

四国艦隊下関砲撃事件の原因は

 

朝廷から強い要請があったことで江戸幕府は1863年の5月10日を期限に攘夷(武力行使をして外国勢力を日本から追い払うこと)を実行することを朝廷と約束しました。約束なので江戸幕府は諸藩に攘夷を行うことを命令せざるを得なくなります。この幕府からの命令を受けたということで長州藩だけではあったのですが1863年の5月に外国船に対し砲撃を行いました。長州藩は今回の事件の前年に外国船を攻撃したことがあるわけです。

1863年に長州が外国船を砲撃した際、翌月には外国側から長州藩に対し報復攻撃が行われました。長州藩の被害は大きかったのですが長州藩は攘夷実行の方針を変えようとせず、下関の海峡を諸外国の船が通行するのは長州から砲撃される危険性が高く困難な状態でした。下関海峡を通過できないということは外国船にとって非常に効率が悪く問題となっていました。

以上のような理由から攘夷の象徴となっている長州藩に武力行使を行い下関海峡の通過を可能にするためイギリスが主導しこのような武力行使に至ったようです。

また下関砲撃との直接の関係があるとは言えないものの、江戸幕府も攘夷の流れに抵抗しきれず、開港した横浜をまた閉鎖しようとする動きも出てきていました。そうなってしまっては諸外国にとって大きな損失であり懸念していたようです。

 

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今回は四国艦隊下関砲撃事件をとりあげました。有力な藩ではあっても欧米列強の当時の力とはあまりに差があり短期間で降伏し早々に講和を結ぶこととなりました。

攘夷派勢力にこれまでも様々な人たちは諸外国の武力は大変強いから攘夷行動は慎むよう伝えてきたのでしょうが、攘夷派の中心である長州は結局自分で大きな痛手を負うことでしか教訓を学び取ることが出来なかったようです(この事件の直前長州藩からイギリスに留学していた人たちが急きょ帰国し攘夷行動は無理であることを藩の幹部に伝えたそうですが聞き入れられなかったそうです)。

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清での出来事に注目して今外国と戦っても勝てないと判断し、開国して西洋文明を取り入れて当時の日本よりもさらに強くなることを優先しようとした幕府や公武合体派の人たちと自分たちが掲げる理想の実現を最優先とし現状に注目せず結果として大やけどをした攘夷派勢力。

どちらを支持するかは人によって異なるかもしれませんが当時の江戸幕府が一部の過激な攘夷派のような行動をとる存在ではなかったというのは間違いないところです。このことは今の日本人にとって非常に幸運だったのではないかと思いました。もし幕府がそんなことをしていたら日本列島の一部は現在他の国の領土になっていたかもしれません。

理想を実現するための方法がいくつかあるような場合に、現状を客観的に観察して現実的にしっかり検討してから方法を選ばないと、あとでひどいことになるよ、痛い目に遭うよ、ということを今回の出来事を調べていて学んだ気がします。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

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