田中内閣が日本で開いた東方会議とは?その背景や影響についても

東方会議とは

 

東方会議(とうほうかいぎ)とは西暦1921年に原敬内閣のもとで開かれた会議と1927年に田中義一内閣のもとで開かれた会議の二つがあります。ここでは1927年に開かれた東方会議を扱います。1927年の東方会議は当時田中義一内閣の時代に、田中義一首相が主催するという形式で大蔵省、海軍省、外務省、関東庁、朝鮮総督府、陸軍省の関係者が参加しています。関東庁 かんとうちょうというのは関東州かんとうしゅう、遼東半島や南満州鉄道の所有地をこのように呼んでいたのですが、この関東州地域の政治を担当していたお役所が関東庁です。朝鮮総督府(そうとくふ)は朝鮮半島を当時治めていた役所です。実際は外務政務次官であった森恪(もりつとむ)という人物が中心となって会議が運営されたという指摘もあるようです。この会議では中国大陸において日本国がどのような方針で行動するべきかについて話し合われました。会議の最後に「対支政策綱領 たいしせいさくこうりょう」と呼ばれる政策の基本方針が田中義一内閣総理大臣兼外務大臣の関係機関に対する命令という形で出されています。中国大陸で生活している日本人を現地で日本政府が責任をもって保護することや満州地域、内蒙古地域に存在する日本の権益を守ることやその地域の治安を守るといった内容が述べられていました。

 

スポンサーリンク

東方会議が開かれた背景

 

1927年に会議が行われる以前に中国大陸の山東半島のある地域、山東省に日本軍が出兵し会議方針に沿った行動が既に行われていましたが、そのような行動がされる以前は中国大陸の出来事にはなるべく干渉しないという方針を日本政府はとっていました。幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)さんが1920年代長く外務大臣を担当していた頃の外交姿勢を幣原外交と呼ぶことも多いようですが、幣原外交の時代に中国大陸で生活していた日本人が中国大陸内の軍閥同士の争いに巻き込まれ襲撃される被害が出ていました。幣原外相の時代には被害が出そうな地域に前もって日本軍を積極的に派兵したり、犯罪を行った武装勢力に対し日本の軍隊による攻撃を加えようとしませんでした。この対応を問題視していた田中内閣は内閣発足後にさっそく幣原外交と異なる対応をしています。第一次山東出兵です。当時山東省地域には鉄道など日本国の権益が存在していました。この権益に関係して現地で生活している多くの日本人を保護する目的で田中内閣は山東省地域に日本軍を派遣します。当時の山東省近辺では「国民政府」と呼ばれる勢力が北伐と称し他の軍閥と戦っており現地の日本人が巻き込まれる心配がありました。このように中国大陸の出来事に対し幣原さんのしていた以前のような日本政府の対応を変更する必要があると当時の田中内閣は考えていたため日本政府関係者を集め田中内閣の正しいと考える対中国大陸政策の方針を明確にしようとしました。

 

スポンサーリンク

東方会議の影響

 

この会議が開催された後もこの会議で明確にされた方針の通り、山東省地域に日本軍が日本人保護を理由に出兵することとなります。また田中内閣は満州地域、内蒙古地域の日本の権益は当時その地域を支配していた中国の武装勢力(具体的には張作霖 ちょうさくりん の勢力のことです)と協力して保護、維持していくという考えでした。対支政策綱領にもそのような内容が書かれているようです。しかしそのような内閣の方針に不満な関東州に駐留する日本軍、関東軍(かんとうぐん)の関係者はこの田中内閣の方針を台無しにしてしまうような暴走をしてしまうことになったと言われています。張作霖の暗殺です。これは東方会議のせい、影響ということではないかもしれませんが東方会議の内容とその後の田中内閣の関東州での対応を見て関東軍の関係者は「これではだめだ。自分たちが正しいと思う方法で満州地域の権益を維持しなければ。」と考えるにいたり、行動(張作霖暗殺)を促す結果となったという指摘があります。関東軍の一部の関係者は満州地域を支配している武装勢力のリーダー、張作霖の権力を奪い、いずれ中国大陸を統一することになる国から満州地域を分離させて日本がもっと積極的に満州地域の支配に関与するべきだという考えだったようです。そのため当時の田中内閣の方針は一部の関東軍関係者からみると甘すぎると映りました。

 

スポンサーリンク

今回は1927年に開かれた東方会議について取りあげてみました。幣原外交とは異なる姿勢で中国大陸に関わっていくことをはっきりと示した出来事の一つと言えるように思いますので重要な出来事なのではないでしょうか。そのような方針転換をはっきりと示す出来事は上でも書いたように山東出兵がありますが、この出来事については別の記事でまた取り上げてみたいと考えています。中国大陸で生活していた日本人が中国大陸の内戦に巻き込まれて被害に遭っているという状況を目の当たりにした時、地元の警察や軍が治安をしっかり守ってくれないのだとしたら日本軍が日本人を守るしかないと田中内閣が判断するのはやむを得ないことだったのだろうなという気がします。日本人が被害に遭いそうでも特に対策をとらないというのでは日本国の存在意義が問われて批判も強まることでしょう。もちろん地元の警察や軍がしっかり機能していればそんなこと(日本軍の出兵)をする必要もないのです。でも当時の中国大陸は様々な武装勢力が存在しそれぞれが覇権をとろうと争っていました。地域によっては現地の治安組織は全くあてにならなかったというのが現実のようです。日本が中国大陸に権益を持つからこうなったのだ、自業自得だと田中内閣の積極外交を批判する意見もあるかもしれませんが、当時の内閣は当時の現実に対し責任をとるしかなかったわけですから。当時の内閣が時間を遡って日清戦争開戦、日露戦争開戦、第一次世界大戦を防ぐことなど出来るはずもありません。ただ治安の悪い地域に権益を持つということは大きな危険性を伴うというのは当たり前と言えば当たり前のことなのでしょうね。例え人件費が安いなどといった経済上のメリットがあったとしても、国情の不安定な地域で経済活動をするということについてはあまりいいこともなさそうです。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

田中義一首相がつらい事になる話「田中義一内閣の張作霖爆殺事件への対応と昭和天皇の反応」はこちらです。

大陸に存在していた日本国の権益に関連する話「満蒙の危機とは?日本の軍隊である関東軍の考えについても」はこちらです。

関連記事

最近のコメント

    ページ上部へ戻る