石田三成さんと徳川家康さんの対立理由は何だったのでしょう
石田三成さんと徳川家康さんの対立理由
これまでの記事でも触れたことがありましたが、慶長5年、西暦1600年に起きた関ヶ原の戦いの発端は会津を領地とする上杉景勝さんを徳川家康さんの勢力が討伐するという出来事でした。徳川勢が南東北に兵を率いて移動していったところを西日本で石田三成さんたちが中心となって挙兵し、徳川勢が東北に行く途中で方針を変更し西で挙兵した石田さんたちを迎え撃つため引き返し両軍が関ヶ原で接触、戦闘に至ります。石田さんが徳川家を敵視していたために西日本で挙兵したわけですが、石田さんは徳川方とどのような理由で対立したのでしょう。豊臣秀吉さんが慶長3年、西暦1598年に亡くなって以降、家康さんは当時政権内の有力武将たちが守らなければならないとされていた規則を破る動きを頻繁にしていました。また結果的に家康さんの裁量で石田さんは政権内での役職を解かれ、政権のある大坂から自分の領地に戻って謹慎しなければならなくなりました。また家康さんは大坂の政権の拠点で豊臣秀頼さんと並んで君臨しているとも受け取れるような振る舞いをしていました。豊臣家による全国統治の仕組みを確実な状態にしたいと考える石田さんにとって豊臣秀吉さんが亡くなった後の家康さんの振る舞いは豊臣家をしのぎ自らを天下人にしようとするものだと疑わせるものだったため、家康さんを討伐するべきだと考えるほど対立を深めることになりました。
スポンサーリンク
規則を破る行為
家康さんは秀吉さんが亡くなった後、有力な武将との間で近親者の婚姻関係をどんどん結んで行きました。別の記事でも触れたことがありますが、秀吉さんとの関係が非常に強かった武将に加藤清正さんや福島正則さんがいらっしゃいますが、家康さんは家康さんの叔父にあたる人物の娘を養女にして、その女性と加藤清正さんを結婚させたり、家康さんの甥にあたる人物の娘を家康さんの養女とし福島正則さんの養子にあたる人物との間の結婚にこぎつけています。それだけにとどまらず、有力大名の伊達家や秀吉さんを支えていた黒田家、蜂須賀家などの関係者との間でも家康さんの関係者との結婚話を実現しました。このような有力な武将との姻戚関係を築くことは徳川方の勢力を強めることにもなります。婚姻関係を結んだ有力武将は徳川家との間で戦をする危険性が低くなります。戦になれば徳川方に味方してくれる可能性が高まります。もともと豊臣政権下では許可なく大名間での婚姻関係を結ぶことは禁じられていたようです。婚姻関係を有力大名が勝手に結んで豊臣家に敵対するような巨大な勢力になっては豊臣家が全国を治め続けることが難しくなるからですが、秀吉さんが亡くなった後、家康さんは敢えてそのような規則を破る行為をたびたびおこないました。
スポンサーリンク
石田さんの謹慎
石田さんは秀吉さんと近い関係にあった有力な武将である一部の方々と関係が悪く、かなり恨まれていたそうです。豊臣政権下の有力者、前田利家さんが亡くなられた後に石田さんを恨んでいた武将たち(福島正則さん、加藤清正さん、黒田長政さん、細川忠興さんたちを含む方々)が石田さんを襲撃するという事件が発生しました。前田さんという重しが無くなったことで縛りが取れてしまったということなのかもしれません。この事件で石田さんは命を落とさずに済んではいるものの家康さんたちの仲介で事件が解決しており、石田さんは豊臣政権の役職である五奉行の立場を退かなければならなくなりました。石田さんが豊臣家を守るための政策を実現したくても政権中央でその権限をふるうことが出来なくなったわけです。見方によっては石田さんが家康さんによって豊臣政権から追い出されたとも言えます。
大坂での家康さんの動き
家康さんは五大老、五奉行という秀吉さんが遺した政権の枠組みの中で最も発言力を持つ立場となり前田利家さんが亡くなった後は豊臣秀頼さんと並ぶほどの権威を大阪で示すようになりました。大坂城で家康さんが使用していた西の丸という区画を、本丸にある天守閣のような造りにしてしまいます。大坂城の本丸、秀頼さんが使う区画にも天守閣があったわけで、城の主は秀頼さんであるはずなのに、あえて並び立つような構えをとって、家康さんが秀頼さんの家臣であるというけじめをぼかしてしまいました。こういった事柄が積み重なり石田さんの家康さんに対する不信感は強まっていったようです。
スポンサーリンク
今回は石田さんと家康さんの対立理由について取りあげました。たくさんの有力な武将が二手に分かれて戦う関ヶ原の戦いはどうして起きたのか理由を確認したく、石田さんと家康さんがどうして対立したのかについて一般的に関心もあるようでしたので今回のようなテーマで記事を作ってみました。秀吉さんが亡くなった後に家康さんが急に他の有力な武将と政略結婚をたびたびおこなえば、確かに怪しい動きだと豊臣政権を維持したい立場なら感じるでしょう。あまりにそのような婚儀の動きが露骨で豊臣政権の他の大老や奉行にとがめられたこともあって家康さんも神仏に誓って約束を守りますという主旨の文書を大老や奉行の人たちに示したようです。しかし理由を付けては石田さんを政権から追い出したり五大老の一角である上杉さんを討伐しようとしたりする行為が続いて石田さんも家康さんが豊臣家から天下を奪おうとしていると確信したのかもしれません。実際に家康さんは豊臣家を滅ぼしているわけで、かつて秀吉さんが仕切っていたような時代の豊臣家を維持したい石田さんとしては家康さんと対立するのは必然だったのでしょう。
今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。 <(_ _)>
※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。
大坂の役の際、豊臣方についた真田さんについて触れている話「真田幸村さんは秀吉さんとどのような関係にあったのでしょう」はこちらです。
戦いに至った石田さんの結末について触れている話「関ヶ原の戦いで石田三成さんは最後にどうなったのでしょう」はこちらです。
最近のコメント