支那事変、日中戦争が拡大した理由は何だったのでしょう

支那事変、日中戦争が拡大した理由

大東亜戦争、太平洋戦争、第二次世界大戦が終了する以前の日本、あるいは東アジアの歴史について関心を持たれてこのページに来られた皆様、こんにちは!この記事では大東亜戦争、太平洋戦争が始まってしまう原因でもある支那事変(しなじへん)、日中戦争という歴史的出来事がどうして中国大陸内で拡大していったのかということについて私なりに書いてみたいと思います。支那事変、日中戦争と併記していますがどちらの言葉を使用されている方々でも通用することを期待してこのように表現しております。ご了承ください。現在の日本の世の中では日中戦争という呼称が主流ですが戦前の日本では公的に支那事変と表現していました。どちらの表現も昭和十二年、西暦1937年発生した日本軍と中華民国蒋介石政権が率いる軍隊の間で生じた武力衝突を意味しています。この年、昭和十二年、日中間の武力衝突が発生してしまったのは7月の盧溝橋(ろこうきょう)事件ではありますがこれをきっかけにする武力衝突は激化したわけではなく、武力衝突が激しくなってしまったのは8月に発生した第2次上海事変以降です。この出来事をきっかけに日本軍は中国大陸の様々な場所で蒋介石軍と戦いを展開していくこととなりました。日本は蒋介石軍との戦闘を続けていく中でアメリカやイギリスとの対立を強め、経済制裁を受ける状況を招き、それらの国と戦う大東亜戦争、太平洋戦争を始めてしまいます。大東亜戦争、太平洋戦争の原因が支那事変、日中戦争の長期化とも言えるわけです。最初は名前の通り上海事変、上海での武力衝突でした。どうして支那事変、日中戦争という形に拡大してしまったのでしょう。中華民国蒋介石政権側としては他国を巻き込んだ状況にして自分たちの立場を有利にしようという思惑があってすぐに日本との停戦に応じなかったという見方があるようですし、日本側としては中国軍に一定の打撃を加えることで短期、あるいは短期とは言わないまでも期間を限定して戦闘を収束させることが出来ると判断していたからという指摘が多いようです。

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以前とは異なっていた蒋介石政権側

以前にも蒋介石政権の軍隊は日本軍と武力衝突することがありました。満州事変以降は衝突が散発したのですが、昭和八年、1933年に塘沽(たんくー)停戦協定と呼ばれる、戦闘を終了するための約束を日中間で結んで一応の結末を迎えています。その後4年を経て第2次上海事変という日中間の戦闘が発生し、この戦闘については日本軍側が蒋介石軍を上海から追い出す結果となりました。日本軍側に押されて軍を撤退させたわけですから早期に日本軍側との間で停戦したほうが蒋介石軍側にとっても痛手が少なそうに思いますが、蒋介石軍はそのような選択をしませんでした。蒋介石軍側は日本軍との戦闘を引き延ばし中華民国内の権益を守ることに敏感なアメリカやイギリス、潜在的に日本を敵視していた社会主義国ソ連などといった他国を自分たちの陣営に取り込み自分たちの勢力を強めることで日本を打ち負かそうと考えていた、そのような見方が最近では多いようです。また米英ソとは異なりますが、ナチス政権時代のドイツと蒋介石政権は協力関係にありドイツ側から軍事顧問を招き戦闘にあたって助言を得ていましたし、当時としては進んでいた武器も導入されていたそうです。そのためかつてと比べ第2次上海事変では日本軍も大変損害を受ける結果となりました。日中間の戦闘は上海の後、当時の中華民国の首都であった南京(なんきん)と移っていくのですが蒋介石側の本陣は戦闘が繰り広げられている現地にとどまらず、大陸の内部に移動していきました。こういった蒋介石軍側の動きも事態を長期化させようという狙いがあったことを示しているように見えます。日中間の戦端が開いてから期間がそれほど経過していなかった頃は他国の姿勢も蒋介石が期待するほど中華民国側に対し協力的ではなかったそうですが戦闘地域が中国大陸内で拡大することによってアメリカやイギリスも支援に本腰を入れるようになります。ソ連は第2次上海事変発生当初から蒋介石政権側と密接に連携、兵器面での支援もしていたそうですし、状況が整えば中華民国側に立って参戦するような意向がソ連の指導者スターリンから蒋介石に伝えられていたことも現在では明らかになっています。このように日本側と正面からぶつからず拠点を移動して長期戦に持ち込み他国を巻き込んで日本側を追いつめ敗北させるという意図が蒋介石軍側には存在していたようです。日中戦争が拡大した理由の一つは戦闘の長期化、それによって日本包囲網を形成する、というのが中華民国蒋介石政権側の作戦だったからということになるのでしょう。

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停戦が可能と考えていた日本側

第2次上海事変が中華民国側の攻撃によって始まったので日本側も応戦することとなり、中華民国の装備の近代化のため迎撃するのに苦慮したものの日本本土からの追加派兵もあって上海から蒋介石軍を追い払うことが出来ました。日本軍に押されて上海から退却した中華民国蒋介石軍は南京方面に移動していったものの、停戦の意思を伝えてくるわけでもありませんでした。それなら中華民国の当時の首都である南京を陥落させれば蒋介石軍も「参りました」といって停戦を求めてくるだろうと現地で戦っていた日本軍の指揮官は考えたようです。日本軍の作戦を指示する参謀本部は結果的に現地日本軍の南京攻略を追認することとなります。日本軍側の奮闘もあって南京攻略は成功、中華民国の首都、南京は日本軍の支配下となりました。しかし首都を制圧したにもかかわらず、蒋介石軍、蒋介石政権は停戦を求めてきません。蒋介石は南京での戦闘が本格化する前に南京から飛行機で脱出、首都を日本軍から守ることに固執せず、政権の本拠地を大陸の内部の都市、重慶(じゅうけい)に移動させ抗戦の姿勢を全く崩しません。日本側は蒋介石軍のこういった動きに対し、蒋介石軍が負けを認め日本側との正式な停戦協議に応じるまで武力行使を継続し追いつめようという方針をとり続けます。結果的に蒋介石軍の拠点を攻撃するために大陸の内部に引きずり込まれていく結果となりました。過去の満州地域、満州周辺での日中間の戦闘では満州地域に侵入してくる中華民国軍を日本軍が撃退し、反対に中華民国側は中華民国領域に攻勢をかけられてしまい押されてしまうような状況になったこともあって日本側との協議に応じ先述した塘沽停戦協定を結びました。「今回も戦闘で結果を出せば停戦できるさ」という日本側の目論見が上海、南京制圧後に外れてしまったにもかかわらず、日本側は蒋介石を追いつめるという目的のために戦闘地域をどんどん広げていくという選択をします。蒋介石の企てた作戦だけではなく、こういった日本側の考えもあって支那事変、日中戦争は拡大していくこととなります。

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今回は支那事変、日中戦争が拡大した理由について一部取り上げました。日中間の戦闘が始まった後、日英、日米の関係も悪化し、ソ連はもともとそうですがイギリスやアメリカが蒋介石軍に協力する傾向を強めてしまうことになります。関係悪化がひどくなり米英とも戦争をしてしまうわけですが、その要因の一つが日中間の戦闘の拡大というのは間違ってはいないのだろうと思います。そのため以前にも上海事変や南京攻略戦について別の記事で扱いましたがどうして戦闘が拡大してしまったのかという点を確かめてみたく今回のようなテーマの記事を作ってみた次第です。蒋介石氏は他国を巻き込んで日本を叩くという戦略を第2次上海事変が起こる以前から持っていたということが彼の日記から明らかになっているそうです。こういった蒋介石側の意図に対し日本側はどうしたらよかったのだろうと記事を作っている間、考えずにはいられませんでした。当時の日本が上海の権益を放棄してその地域から撤退するなどという選択をするというのはやはり無理な話だったのでしょうかねぇ・・・。日中間の武力衝突が始まった当初、戦闘地域を制限する命令を日本陸軍中央の参謀本部は出していたようなのですが、現地の日本軍が命令に反し独断で南京に向けて進軍してしまいます。参謀本部が結果的にそれを追認してしまったというのは今の時代の自分から見ると大きな過ちのように見えてしまいます。ただ日本軍が参謀本部の命令通り上海周辺にとどまるようにという命令を守っていたとしても蒋介石軍は上海にとどまる日本軍に対し再び何らかの攻勢を仕掛けてきたのかもしれませんね。それはそれで切りのない話となってしまいます。実際どうなったであろうかということはわかりませんが。しかし軍組織で命令がしっかり守られないというのはやはり相当問題だという気もしてしまいます。日本軍の規律が徹底されているようで実はそうでもないないというのは一体何なのでしょう。

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

今回の記事では写真ACで提供されている写真を使用させていただいております。

この記事の本文でも出てくる第二次上海事変について触れている話「第二次上海事変とは?大山中尉やドイツの関わりについても」はこちらです。

日中間の戦闘を停船させようとした動きについて触れている話「トラウトマン工作とは?和平条件や参謀本部の姿勢についても」はこちらです。

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