菅原道真さんが大宰府に左遷となったのはなぜなのでしょう

菅原道真さんが大宰府に左遷された理由

 

菅原道真(すがわらのみちざね)さんは大昔、平安時代だった日本で朝廷のお役人を務められていた、元々は学者の立場だったかたです。朝廷のトップ、天皇から非常に重用されたそうで一時は右大臣(うだいじん)という朝廷による国内政治の取りまとめを託されたとても位の高い役職の一つに就任したこともあったそうです。右大臣は太政大臣(だじょうだいじん)、左大臣(さだいじん)に次ぐ高い位の役職です。現在は天満宮(てんまんぐう)という神社で祀られている(まつられている)学問の神様という存在としてのほうが過去の大変出世したお役人、学者さんという側面よりもはるかに有名なのかもしれません。受験シーズンでは天満宮に参拝目的で訪れたり、御守りを入手する受験生がニュースで取りあげられることも多いような気がします。全国に存在する天満宮は12000ほどにものぼるそうで(凄い数ですよね)、それだけ多くの人々から崇め(あがめ)られているということがうかがわれます。平安時代の日本で大変出世した道真さんですが良いことばかりで生涯を終えたのではなく、晩年、本人にとっては不本意な境遇となりました。住み慣れた京を遠く離れた九州北部の朝廷のお役所、大宰府(だざいふ)に転勤することとなったのです。この人事は左遷(させん)、悪い評価がなされた結果による職場の移動だったとされています(それはそれで九州で生活されている方々にとって失礼な話ですが)。なぜ菅原道真さんは左遷と指摘されている大宰府への移動を朝廷から言い渡されたのでしょう。天皇の代が変わったということと「でっちあげ」が理由となっているようです。

 

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天皇の代替わり

 

道真さんを高く評価し重用していた天皇は宇多天皇(うだてんのう)というかたでした。この方は天皇に即位したとき摂関政治で有名な藤原家の当時の有力者、藤原基経(ふじわらもとつね)という人物から指示書の文言を理由に職務放棄されて迷惑な思いをさせられたことがあった方だそうで、藤原家とは距離を置き優秀な人材を側近にして政治に積極的に関与しようとしたのだそうです。学者として学生からも多くの支持を集める人物であった道真さんは宇多天皇によって秘書官にあたるような役職に任命され天皇を補佐しました。宇多天皇の治世の時代、道真さんは中央政府で活躍することとなります。しかし当時の皇室制度ではお亡くなりになるまで天皇を担当されるのではなく状況によって他の皇族に天皇の座を譲ることが普通におこなわれていました。宇多天皇も承平(じょうへい)元年、西暦931年に薨去(こうきょ)、お亡くなりになられますが、別の皇族の方に天皇の座を譲られる、譲位(じょうい)されたのは寛平(かんぴょう、かんぺいなどと読むそうです)九年、西暦897年でした。宇多天皇の御在位期間は10年間だったようです。次の天皇は宇多天皇の息子さんである醍醐天皇(だいごてんのう)でした。道真さんを重用してきた人物が朝廷のトップではなくなりました。

 

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でっちあげ

 

醍醐天皇の世の中となり、貴族の有力者、藤原家の人物である藤原時平(ふじわらときひら)という人が醍醐天皇に根拠のない話を吹き込みました。菅原道真は醍醐天皇を天皇の座から引きずりおろし、自分の娘を嫁がせた宇多天皇の第三皇子、斉世親王(ときよしんのう)を新たな天皇として即位させようと企て(くわだて)ています、といった内容の密告だったと言われています。その結果、はかりごとを計画した疑いで道真さんは追及され、罪を問われて京から離れた地、大宰府に移動となりました。太宰権帥(だざいごんのそち)という大宰府の定員外のお役人となっています。延喜(えんぎ)元年、西暦901年、醍醐天皇が即位してから四年後の移動です。しかしそれからそれ程期間を経ず、二年後に道真さんはお亡くなりになります。満五十七歳の生涯でした(移動後あまり時間が経たないうちに亡くなられたことについては、この人事が影響したのか何とも言えません)。大宰府への移動の際、宇多上皇(元天皇のことを太上天皇(だいじょうてんのう)や上皇(じょうこう)などと言います)はこの人事に抗議しようとしましたが醍醐天皇に受け入れられなかったそうです。

 

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今回は菅原道真さんの失脚について一部取りあげました。藤原家は摂関政治と言われる天皇との外戚関係の構築による政治的実権の確保や政敵の追い落としが有名なようですが、今回の道真さんの話に関しても藤原氏による政治的ライバルの排除という見方が出来るかと思います。先日藤原家の政治に関する記事を作ってみましたし関連する話でもあるようなので今回このようなテーマの記事にしてみました。組織のトップの代替わりで前のトップの側近だった方々がたくさん組織の中枢からいなくなるという現象は昔も今も似たような物なのかもしれません。しかし不名誉な話をでっち上げられ懲罰的な人事に従わなければならなくなるというのは本当にやっかいな話ですね。道真さんがこんな仕打ちを受けてしまうのだったら宇多天皇が譲位される時期を境に朝廷中央から身を引いて京で学問に打ち込めるような役職に就かせてもらえるよう宇多天皇に申請したほうがまだましだったかもしれません。宇多天皇としては優秀な道真さんに引き続き醍醐天皇、息子の補佐を宜しくお願いしたいという思いがあったのでしょうけれど。権力の近くにいるとこういったトラブルに巻き込まれてしまうことがあるものだということを、現在官僚をしたり大きな組織の中央で仕事をしている方々などはわきまえておいたほうがいいのかもしれません。こわいですねー。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

まったく別の時代の陰謀がささやかれている話「山本権兵衛内閣の時に起きたジーメンス事件(シーメンス事件)とは」はこちらです。

時の政権の重要人物が失脚したことについて触れている話「老中安藤信正公のすすめた公武合体とは何なのか調べてみました。」はこちらです。

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