鎌倉幕府の守護(しゅご)とは何なのでしょう

鎌倉幕府の「守護」とは

 

源頼朝さんが征夷大将軍に就任して鎌倉を拠点に政権を運営したいわゆる鎌倉幕府。この鎌倉幕府には様々な機関や役職が設けられました。政権に所属する武士をまとめる役所や訴え事を処理する役所、政治の事務や政権に集まるお金の使い方を決める役所などが幕府の中央に設けられたことは社会や歴史の授業でも扱われる話だったと思います。その一方で地方には「守護(しゅご)が置かれた」といったことも学校で教わる話の中に出てきました。この鎌倉幕府が関係する「守護」とは一体どのようなものだったのでしょう。守護というのは鎌倉幕府から任命され地方に派遣される役人のようなものです。現在の警察のような役目を果たしていたようですし、武士が担当する仕事を取りまとめる役目も担当していたと言われています。

 

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警察

 

悪さをする人は鎌倉時代にも当然おり、そういった連中を適切に罰して派遣された地域の人々の安全を保つ働きが守護に求められました。治安の維持ということです。特に重点が置かれたものの中に人をあやめた者を捕えること、世の中の仕組み、体制に対して反乱をおこなった者を捕えることなどがあります。捕えた後の処罰も任されていたようです。今で言えば警察機能と検察、裁判機能を持っていたことになりますので強大な権限と言えます。その他にも強盗、放火犯といった重大な犯罪をおこなった者や盗賊、山賊、海賊など反社会的な勢力を追跡し捕えることも役割となっていったそうです。当然しっかりとした武力が無ければ出来ない仕事です。

 

地方在住武士が担う仕事のとりまとめ

 

「君はこの仕事が割当たっているのでよろしく。きちんと務めを果たしてくださいね。」といった噛み砕いた通知をしたわけではないでしょうが、管轄の地域で生活している幕府に所属していた武士、御家人(ごけにん)の方々に対し幕府から要請されるお務めをするよう働きかける、そういった役目もありました。京都大番役(きょうとおおばんやく)という呼ばれかたをする重要な役目が当時の御家人の方々には求められていたそうです。これは京にある天皇のお住い、御所(ごしょ)周囲の警備をするというもので様々な地域の御家人の方々が交代で担当していました。3ヶ月あるいは6ヶ月といった期間担当するものだったそうです。この京都大判役をやるよう催促する役目と反乱をおこなった人を捕えること、殺害人を捕えること、この3つの役割が特に重視された守護担当者の仕事だったそうで、この3つを大犯三箇条(だいぼんさんかじょう)などと呼びました。

 

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前身

 

守護と呼ばれる以前から頼朝さんは自分の勢力に従う武士を各地に派遣する権限を朝廷に認めてもらっていたそうです。源氏の勢力が台頭する以前に平家という勢力が大きな権限を持っていましたが、この源氏と平家の間で争いが起きます(源平合戦)。結果的に優位に立った源氏勢力は平家の残党を追跡し捕える必要が出てきましたが各地に派遣された源氏側の武士はその役目を任されました。また平家が没落した後は源頼朝さんと対立することになった源義経さんを追跡し捕える役割も求められたそうです。こういった任務を任された役職を惣追捕使(そうついぶし)と呼んだそうです。平家追討や義経さん追討が目的だったのですが二つの任務が終了した後、頼朝さん側が朝廷側に各地に自分の配下を派遣する権限を認めさせることに成功しました。これによって平家や義経さんと戦っていない平和な時期も幕府の代理人が地域に守護として派遣されることとなります。幕府による全国への支配力が増す結果となりました。

 

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今回は鎌倉幕府の役職である「守護」について取り上げました。昔学校の授業で習ったということ自体は何となく記憶はありましたが、どういった役割があったかについてはもう覚えていませんでしたので確認したく、一般的にも関心が持たれているようでしたのでこのようなテーマの記事を作ってみた次第です。地域にこのような幕府の関係者を派遣することについて、朝廷側は本音を言えば認めたくないといった思いがあっただろうという見方があるようです。地域に幕府の関係者が派遣され治安維持のような重要な役割を担うようになれば地方での朝廷側の権限が小さくなることに繋がってしまうからです。朝廷側が嫌がる仕組みを平家追討、義経さん追討のような、緊急時なので必要に迫られてといった理由で持ち出して、その後に平時にも導入することを認めさせるというのはやり方が巧妙な気もします。こういった手法がまかり通るのも頼朝さんの率いる武士勢力が強大だったからなのでしょう。平家が倒れ、義経さんをかくまった奥州の藤原家も頼朝さんに滅ぼされてしまった後の状態です。朝廷側が源氏と対抗したくても朝廷側に立って源氏勢力と戦ってくれる武士集団がいないのなら対抗のしようがありません。平家の追討も義経さんの追討も朝廷が源氏勢力に対して許可したことではあるのですが、その後はどうなったかと言えば、結果としてあまり朝廷側の望む状況になりませんでした。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

江戸時代の地方を治めていた大名について触れている話「江戸時代に存在した大名の種類や特徴はどうだったのでしょう」はこちらです。

鎌倉幕府所属の機関の一つについて触れている話「六波羅探題(ろくはらたんだい)とは?簡単に説明しますと」はこちらです。

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