秀吉さんは毛利勢とどのような和睦をしたのでしょう

秀吉さんと毛利勢の和睦

 

織田信長さんは尾張、現在の愛知県西部から、美濃(現在の岐阜県南部地域など)、近畿、越前(現在の福井県や岐阜県の一部の地域にあたります)と勢力範囲を広げ、さらに本州での支配領域を拡大しようとしました。中国地方も支配下に収めるため軍を派遣し、中国地方の有力な戦国大名、毛利家と戦をします。この中国攻め、中国征伐などと呼ばれる織田勢の軍事行動は天正5年、西暦1577年から始まったのだそうです。この中国地方での織田勢と毛利勢の戦が終わりを迎えたのは天正10年、西暦1582年の6月です。京都の本能寺というお寺で信長さんが家臣の明智光秀さんに襲撃され自害、命を落としています。この知らせを毛利側よりも先に得ることの出来た秀吉さんは急きょ毛利勢と停戦の交渉をおこない成立させることが出来ました。天正5年から天正10年までの5年間、かなり期間が長いように思いますが、その戦をどのような内容で急いで和睦に持ち込むこととしたのでしょう。もともと毛利勢の支配地域となっていた領域のうち、備中(びっちゅう 現在の岡山県西部にあたります)や美作(みまさか 現在の岡山県東部の北側の地域にあたります)、伯耆(ほうき 現在の鳥取県の西側の地域にあたります)といった地域を織田側に譲ることと、戦略上重要な拠点となっていた備中にある毛利勢支配下の高松城という城の主など重要人物たちが自害することを秀吉さんらは要求し、毛利勢もそれを受け入れ和睦、停戦が成立したそうです。

 

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それ以前の織田勢の要求

 

戦をおこなっている中、旧暦の6月2日、本能寺の変が発生する以前にも織田勢と毛利勢の間で交渉の場というのはあったそうなのですが、その時に織田勢が毛利勢に対し戦いを終わらせるために要求していた内容というのは本能寺の変以後の和睦内容とは異なっていたと言われています。上で書いたように成立した和睦では備中、美作、伯耆が織田側に渡されるということになりましたが、それ以前の交渉では織田勢が毛利勢に六か国要求し、それに対して毛利側が五か国だけ譲渡、といった主張をしていたという話もあるようです。これについては織田側が五か国の要求と高松城の城主の自害を要求したのに対し、五カ国譲り渡しはいいものの、高松城城主の自害は認められないと毛利側が主張し折り合いがつかなかったという話もあるようです。五カ国の場合備中、美作、伯耆の他に備後(びんご 現在の広島県東部にあたる地域です)、出雲(いずも 現在の島根県東部にあたる地域です)といった地域の譲り渡しが想定されていたと言われています。

 

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高松城城主の命

 

当時高松城の城主を務めていた毛利勢の人物は清水宗治(しみずむねはる)という人でした。この方の命が和睦の条件として議論されたわけです。秀吉さん側は城主である宗治さんら主(おも)だった人たちが自害するのであれば高松城の兵員たちの命は助けるという条件を提示します。宗治さんの命を助けたい毛利側は宗治さんに秀吉側に降伏しなさい、毛利側もそれを許すからという働きかけを宗治さんにしたなどという指摘もあるようです。しかし宗治さんは降伏することは本来の毛利家との約束を違えることになるとして、自分が死に、毛利勢と秀吉さん側が和睦するという案を受け入れることになります。宗治さんが自害することを受け入れ毛利と秀吉さんの和睦も成立することになりました。

 

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今回は本能寺の変が発生した後中国地方で戦をしていた秀吉さんと毛利勢の停戦について取りあげました。本能寺の変が発生して秀吉さんが速やかに毛利側との戦を終了して軍勢を移動させる話は有名ですが、どういった内容で毛利側と折り合いをつけることになったのか確認したくこのようなテーマで記事を作ってみました。毛利側が織田側に五か国や六か国譲り渡すという線で話し合われていたものが実際の和睦では三か国の譲り渡しで決着がついたわけなので毛利側にかなり譲歩した内容だということがわかります。この点は毛利側としてもかなり受け入れやすい話だったのでしょう。しかし毛利側が難色を示すであろう高松城の城主、清水さんの命を要求することに秀吉さん側がこだわっていることについてはどうしてなのかよくわかりませんでした。これについてはもし信長さんが生きていて毛利側と和睦するなら当然城主の命を要求することになるだろうという考えがあったからという見方があるようです。高松城城主の命を要求しないで和睦したとなると毛利側に何故そこまで毛利に譲るのかと怪しませることになるので信長さんの死亡を相手(もうりがわ)に悟られない為にも清水さんの自害要求を降ろすわけにはいかなかったということのようです。早く交渉をまとめるために相手が受け入れやすい要求だけにするというのはわかりやすい話ですし、今回の話はその良い例だと思いますが、責任者の命を奪わなければ納得しないという点については今の時代を生きる私にとっては理解しがたい本当に厳しい話です。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

関ヶ原の戦いの後の毛利家について触れている話「関ヶ原の戦いのあと毛利家の領地はどうなったのでしょう」はこちらです。

信長さんが本能寺にいた理由について触れている話「信長さんの本能寺滞在にはどのような理由があったのでしょう」はこちらです。

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