織田信長さんと上杉謙信さんの関係はどうだったのでしょう

織田信長さんと上杉謙信さんの関係

 

戦国時代に急速に勢力を拡大し天下統一に非常に近付きながら、家臣の明智光秀さんの謀反により命を落とした織田信長さん。信長さんは有力戦国大名である武田家を倒したことでも有名ですが、武田家の当主も務めた非常に有名な武将、武田信玄さんを戦で破って死に追いやったわけではありません。信玄さんは病を理由に亡くなっています。織田勢対武田勢の戦である有名な長篠の戦いの時、武田家の当主は信玄さんの息子、武田勝頼さんでした。武田信玄さんと複数回戦闘をおこなった武将としては上杉謙信さんがむしろ有名なのでしょう。上杉勢と武田勢は長野県北部にあたる地域を巡り長らく対立していました。上杉謙信さんと織田信長さんは同時代を生きていた武将であり、上杉は武田と対立、織田は武田と同盟を結んだり、その同盟を破棄して戦になったりしていますが、上杉謙信さんと織田信長さんの関係はどうなっていたのでしょう。織田さんが勢力を拡大する以前は治めている領地がそれ程近くなかったこともあってか謙信さんと信長さんは関係が悪化するようなことはしばらくありませんでした。しかし信長さんが足利義昭さんを政治の中心から追放したあとは関係が悪化し戦をすることになってしまいます。

 

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当初の関係

 

信長さんは戦国時代の非常に強い大名として名の知れ渡っていた謙信さんに対し、とても丁寧な姿勢で当初は接していたと言われています。謙信さんに出している書状の内容もへりくだったものだったそうですし、大変貴重な品(屏風など)を謙信さんに贈るといった行為もしていたそうです。謙信さんは室町幕府が国内を統治する仕組みを尊重する立場だったそうで、信長さんにかつがれ室町幕府将軍となった足利義昭さんの将軍就任当初は信長さんと協力していたので、謙信さんが信長さんと対立する理由もありませんでした。また謙信さんと信長さんは元亀3年、西暦1572年に武田側による攻勢に対し協力して対処するために同盟を結んでもいました。織田側は同盟を結んでいる徳川の支配領域に武田勢が攻めてきたことで対立していましたし、上杉側は支配領域で武田側による工作で地元勢力が反乱を起こしてしまい対応しなければならなくなりましたし、共に武田側に苦しめられていたようです。ということでお二人の関係は当初、幕府を支える共通の立場であり、その後同盟を結んだこともあって悪いものではありませんでした。

 

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将軍の追放で

 

しかし信長さんの将軍・義昭さんに対する要求などを理由にして、信長さんと義昭さんの関係が次第に悪化していきます。義昭さんの忍耐の限度を超え、義昭さんは信長さんに対し戦を仕掛ける結果となりました。戦をしたものの信長さんに敗れてしまい、信長さんによって義昭さんは京から追放される目に遭ってしまいました。室町幕府はこれによって実質的に滅んでしまいます。室町幕府の復権をはかる義昭さんは諸国の大名に室町幕府将軍として信長さんを討伐するよう書状を出しました。書状を送った相手の一人に上杉謙信さんもおり、義昭さんの要請を受け、謙信さんは信長さんと敵対する姿勢に転じました。信長さんと敵対し、上杉さんとも戦った一向一揆勢力と上杉さんは一転して連携することとなり、謙信さんと信長さんの関係は決定的に悪化します。同盟関係は解消となり、上杉勢と織田勢は越中(現在の富山県にあたる地域)の主導権を争う戦をしています。天正5年、西暦1577年におこなわれた手取川の戦い(てどりがわのたたかい)です。謙信さんは信長さんの家臣、柴田勝家さんが率いる軍勢と戦いました。この戦いで勝利したのは上杉側で、この戦いの後、信長さんは上杉側と激しく対立する動きは示さないようにしたそうです。織田勢との戦いに勝利した謙信さんでしたが、その後病を発症しお亡くなりになります。天正6年、西暦1578年のことでした。勢力拡大を狙っていた信長さんにとっては非常に都合の良い展開となります。

 

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今回は信長さんと謙信さんの関係について取りあげました。戦国大名として大変有名なお二人ですが、謙信さんと信玄さんの対立、信長さんと浅井・朝倉連合の対立、信長さんと本願寺の対立といった歴史でもよく取り扱われるような関係が、謙信さんと信長さんの間では思い浮かばず、確認したい思いもあり、最近は信長さんに関係した記事を作っているのでこのようなテーマの記事にしてみました。足利義昭さんと信長さんの関係が良好で、信長さんが室町幕府の権威のもとで勢力を拡大していたのならば、謙信さんと信長さんの関係も良好な状態が続いたのかもしれません。当時の幕府に力も権威もそれほど無いと信長さんは軽く見ていたのかもしれませんが、彼と異なり室町幕府による秩序維持を望む勢力というのは決して弱いわけではなかったですし、幕府を敵にまわすと関係が悪化する有力な勢力が出てきてしまう場合があるんですね。強引、高圧的な印象が信長さんに対してはありましたので、謙信さんに対してへりくだった姿勢で接していたというのは意外な気もしました。信長さんは義昭さんに対しても当初は極めて尊重した姿勢で接して、その後立場が固まった後はズケズケと批判するようになりましたから、状況に応じて態度をかなり変えるところがある人と見ることが出来るのでしょう。人の本音というのは一時的な姿勢や態度ではなかなかわからないものということでしょうか。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

信長さんと室町幕府将軍との関係について触れている話「織田信長さんと足利義昭さんが対立したのはなぜなのでしょう」はこちらです。

信長さんと宗教勢力の関係について触れている話「織田信長さんが本願寺側と対立した理由は何だったのでしょう」はこちらです。

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