織田信長さんが本願寺側と対立した理由は何だったのでしょう

織田信長さんと本願寺側が対立した理由

 

室町幕府の13代将軍、足利義輝さんの弟、足利義昭さんを本来将軍となるにふさわしい人物としてかつぎ、上洛、京に進軍し、京都周辺を勢力下に置いた織田信長さん。上洛したのは永禄11年、西暦1568年だったと言われています。それから2年後の元亀元年、西暦1570年に信長さんは石山本願寺という宗教勢力と戦をすることになります。この戦いは石山合戦(いしやまかっせん)と呼ばれていて摂津(せっつ)国(現在の大阪府の一部や兵庫県の東側を含んだ地域にあたります)で繰り広げられました。戦に強いことで有名な織田信長さんですが、この石山合戦は短期間で決着がついていません。戦が終わったのは天正8年、西暦1580年です。11年間も戦が続きました。非常に長く続いた織田信長さんと本願寺側の戦争、石山合戦はこの二者間のどのような対立が理由となって発生してしまったのでしょう。信長さんによる本願寺に対する要求がどんどんエスカレートしたからというのがよく指摘される理由のようです。他には本願寺側とつながりが強かった勢力が関係しているという見方もあるようです。補足ですが、石山本願寺(いしやまほんがんじ)というのは仏教宗派である浄土真宗(じょうどしんしゅう)のお寺です。このお寺には浄土真宗の開祖、宗派を開いた人物である親鸞(しんらん)さんの子孫である顕如(けんにょ)さんという指導者がいて信長さんと対立しました。顕如さんは当時浄土真宗を信仰していた人々から大変尊敬されていた人物であったため、たくさんの信者を動かす非常に強い影響力を持っていました。

 

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信長さんの要求は受け入れ難かった

 

京都を制圧した信長さんは周辺地域、近畿地方に存在する勢力に指示を出すようになります。戦をするために必要な軍資金、矢銭(やせん)を出すようにという命令がお金を持っている勢力に対し出されました。前に取り上げた商業都市、堺の話でも矢銭、2万貫の話がありましたが、摂津の石山本願寺に対しても信長さんはお金を要求したようです。宗教団体というのは信者さんからの献金もあるでしょうし、商売をおこなうための場所を提供したりするようなこともあったそうですから何かと商業利権を持っていて経済的には豊かだったということなのでしょう。浄土真宗を信仰する人々は多かったそうですし。本願寺にはお金があると判断し信長さんは石山本願寺に対し矢銭5千貫を要求しました。今のお金に換算するのは難しいようですが1億円単位の額になる位の大変な金額だったようです。このお金の要求には抵抗せず支払った本願寺側ですが、その後浄土真宗の宗派内の指示、命令にも信長さんは介入しようとしましたし、信者の動向についての報告義務も課したそうです。そして多く指摘されている受け入れ難かった要求は、顕如さんたち宗派勢力の石山本願寺からの退去でした。本願寺から出ていくようにと。こうして信長さんからの要求にはもう応じられないということで本願寺側が対決姿勢に出て戦になったと見られています。

 

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本願寺とつながりがあった勢力が信長さんと敵対

 

信長さんが京に進出する時、信長さんは京都を支配していた勢力と戦いました。戦国大名の三好(みよし)家に関係する人々で構成されている「三好三人衆みよしさんにんしゅう」と呼ばれた勢力です。信長さんと戦いはするものの結果的に敗走していくことになりますが、この三好三人衆と本願寺は協力関係にあったそうです。三好三人衆はキリスト教布教に否定的だったそうでキリスト教勢力が拡大することを憂慮していた本願寺側にとってはありがたい存在でした。本願寺にとってありがたい勢力だった三好勢を織田さんが京から追い払ってしまい、信長さんによって畿内のキリスト教の布教も認められてしまうことになります。本願寺にとって望ましくない状況となりました。

 

今回は本願寺と信長さんの対立について一部取りあげました。信長さんが戦国大名と対決して勝利し勢力を広げていくという構図はわかりやすいのですが、どうして宗教勢力と激しい戦いがおこなわれたのかについてよくわからなかったのでこのようなテーマで記事を作ってみることにしました。一宗教勢力が信長さんを相手に10年以上戦争を継続することが出来るというのがそもそも驚くべき話のようにも感じます。相当な人手、お金が無ければそんなことって出来ませんよね。

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宗教勢力が力を持つと国内最有力の大名が相手になっても渡り合えるくらい強力な存在になるものなのだということを知ることが出来ました。ということは以前記事で扱ったこともある無差別大量殺人をおこなうオウム真理教のような勢力が力を持つとやはりすごく恐ろしいことになってしまうのでしょうね。世の中を統治する存在にとっては今も昔も宗教勢力は無視することの出来ない存在ということなのでしょう。信長さんが顕如さんたちに石山本願寺の退去を要求したのは、本願寺があった場所が非常に戦略上重要な場所だったからという指摘があるようです。当時の石山本願寺は岬の先端のような地形の中に存在していたお寺だったそうで、周りが海に取り囲まれていて攻めづらく、近くには琵琶湖から流れ京を通過する大きな川、淀川の河口があり、重要交易都市も近いといった環境でした。西日本に勢力を拡大したい信長さんにとっては非常に価値のある場所だった、そのような見方もあるようです。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

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