会津戦争とは?なぜ起きたかについても

会津戦争とは

 

西暦1868年の6月から11月にかけて、主に現在の福島県の会津地方で戦われた戦争です。新政府側と会津藩、会津藩を支援する旧幕府軍、奥羽越列藩(おううえつれっぱん)同盟の勢力の間で戦われました。

白河藩の城、白河城が新政府の手に落ち、現在の福島県二本松市の地域で行われた戦闘でも奥羽越列藩同盟の勢力は新政府側に敗れてしまいました。

新政府軍は会津藩に侵入し、中心部である若松城で戦闘が行われます。会津藩側は城に立てこもり他の藩からの援軍が来るのを期待していましたが、支援してくれていた奥羽越列藩同盟に参加する諸藩は新政府軍との戦闘に敗れ次々に降伏してしまいました。援軍が期待できないこともあり西暦1868年11月に会津藩側は降伏しています。

降伏後会津藩藩主、松平容保(かたもり)公は会津から江戸へ移送され謹慎するように新政府側から命じられました。また、会津藩の重臣が責任を負う形で自害させられています。会津藩の領地は明治政府が所有することとなり会津藩の家臣の人たちは、現在の青森県むつ市がある地域へ移されることとなりました。移った先は斗南(となみ)藩という新しい藩となりました。

 

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なぜ会津戦争は起きたのでしょうか

 

藩主、松平容保公は鳥羽・伏見の戦いの後、会津に戻り謹慎していたそうです。新政府側に従うことを示すためそのような対応をしたようですが、一方容保公が徹底抗戦を主張したという話もあり、本人の考えが結局どちらだったのか今回調べていてよくわかりませんでした。従う姿勢を見せても新政府側があくまで攻撃をするというので自分の藩を守るため、やむを得ず戦ったということでしょうか。

奥羽越列藩同盟側から会津藩や庄内藩の処分を穏便にしてほしいという要望が新政府側にたびたび出されていたようですが、それについて新政府側は拒否するばかりでした。新政府側が寛大な対応をしなかった理由として新政府側の有力藩である長州藩が会津藩に対する相当な恨みを持っていたからという指摘が多いようです。

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容保公が幕府の命令で京都守護職に就任した以降、京の治安を守るため攘夷派の勢力を厳しく取り締まっていました。長州藩の関係者がたくさん新撰組などの治安組織によって命を落としているため、会津藩は仲間の「かたき」という意識を長州藩は持ち続けていたのかもしれません。新選組は京都守護職のもとで活動していました。また西暦1863年の「八月十八日の政変」では長州藩勢力や長州とつながりの強かった公家の人たちが京を追われています。1864年の禁門の変では長州藩が京を警備する会津藩や幕府側と戦って敗れています。長州藩にとって常に相手側には会津藩がいたわけです。会津藩は京都の治安を守る立場ですから当たり前の話なのですが。また長州征討にも会津藩は参加しています。

また、会津藩の容保公は鳥羽・伏見の戦いにも旧幕府側として参加しておりそれが理由で朝廷から旧幕府の将軍、慶喜(よしのぶ)公に次ぐ「朝敵」と判断されてしまっています。そのようないきさつもあり新政府内部では会津藩に寛大な処分をするという意見は出にくい状況だったのではないでしょうか。

旧幕府側として新政府の動きに抵抗してきた会津藩勢力が今後も残った場合、後で会津藩が新しい兵器で軍備を整えて反乱を起こしたら大変なことになるという思いも新政府側にはあったのかもしれません。

 

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今回は会津戦争について調べてみました。この戦争はやらなければならない戦争だったんでしょうかねー。東北の他の藩についても言えることですが戦争を回避することは出来なかったんでしょうか。戦争が起きる前は容保公も謹慎していたということですし、新政府側が藩主は謹慎だけ、会津藩家臣に自害を要求しないといった条件が満たされた降伏勧告をしていたのなら、会津藩も応じたということはなかったんでしょうか。そんな簡単な話ではなかったということですかね。

江戸幕府の命令に従って京都で治安を守る仕事をして、幕府が戦争をするときはいつも幕府を支えてきた会津藩ですが新政府側に恨まれて藩主も藩士も散々な目にあってしまいました。就任する以前、京都守護職になるのを容保公はたびたび断っていたそうです。越前藩の前藩主、松平慶永(よしなが)公が説得してやむを得ず引き受けることとなったのだそうです。押し付けられた形ですよね。

その後慶永公は新政府の重要な役職である議定(ぎじょう)に就任し、一方京都守護職を引き受け職務を果たした容保公は厳しい処分を受けました。妙な話です。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※写真は会津の磐梯山(ばんだいさん)です。

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