鎌倉幕府が永仁の徳政令を出した理由は何だったのでしょう

鎌倉幕府が永仁の徳政令を出した理由

鎌倉時代の歴史に関心を持たれてこのページに来られた皆様、こんにちは!この記事では私なりに鎌倉幕府がなぜ永仁の徳政令(えいにんのとくせいれい)を出したのか、その理由について書いてみたいと思います。永仁(えいにん)五年、西暦1297年に鎌倉幕府は御家人(ごけにん)、幕府に従っている武士に対して、以前質に入れたり、売却してしまった領地を無償(むしょう)、タダで取り戻すことを認めるという内容を含んだ法令を出しました。この幕府の出した法令が永仁の徳政令と呼ばれています。御家人対象に無償で土地を再び自分のものとすることが出来るよう幕府が取りはからったということなのでその土地というのは御家人に対し幕府がもともと権利を認めていた土地なのでしょう。これによって御家人から土地を買ったかたや御家人の土地を借金のかたとして御家人にお金を貸している金融業者は御家人にタダで土地を渡さなければならなくなりました。タダで戻さなければならないとすると、御家人に渡したり貸した土地の代金は戻って来ません。もろに損をすることとなります。お金の貸し借りの当事者一方側からするとひどく筋の通らない、反発の出ることが容易に想像できる法令を幕府はどうして出すことにしたのでしょう。幕府の支配体制を弱めたくなかったから、幕府が扱う裁判を減らしたかったからなどといった理由があったと見られているようです。

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鎌倉幕府の体制を弱めたくなかった

徳政令が出された頃、経済的に苦しい思いをしていた御家人の方々はたくさんおられたようです。先祖から領地(幕府に権利を認めてもらっている領地)を受け継ぐにしたがって領地が兄弟の人数分に分割されたため後の代になるほど引き継ぐ領地が小さくなり、その領地から得られる収入が少なく余裕をもって生活出来なくなったといった理由もありました。様々な品物が貨幣を介して流通する世の中に変化していったことで御家人の人たちも生活していくためにお金がそれなりに必要となっていったという事情もあったようです。またモンゴル軍や高麗軍が日本に侵攻した、元寇(げんこう)の時に御家人の人々は侵攻する敵軍に対し手弁当、つまりそのための費用を幕府から支給されず、自費で戦地に向かい生活費をまかない、迎撃しなければならなかったために余計お金を使わなければならない状況に陥ってしまってもいました。こういった複数の要因が重なって多くの御家人の方々を苦しめていたようです。生活するにはお金が必要だけれどもお金を得る手段が他になければ先祖、あるいは自分が幕府からいただいた領地を売るか借金のかたにしてお金を借りるしかないと・・・、ということで御家人による土地売却、土地を担保にした借金が増えることとなります。

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幕府と御家人の関係は幕府が御家人に領地を授け与え、その幕府の取りはからいに御家人が従軍なり警備なりをおこなって奉仕することで報いるといった関係なわけです。御家人が幕府由来の土地を処分してしまったら、御家人のもとに幕府由来の財産が無くなり、幕府に対する御家人の忠誠心が弱まってしまうおそれがあります。そうなると幕府の為に駆けつける御家人が減り幕府の軍事力が弱まってしまうかもしれません。それは幕府の統治能力の低下につながりますので幕府にとっては大きな問題となります。そのため御家人が土地を手放さないように幕府は何らかの対策をとる必要がありました。

裁判を減らしたかった

この時の徳政令には無償で御家人が土地を取り戻すことが出来るといった内容の他にも再度訴訟をするようなことを禁止したり、お金の貸し借りに関する訴訟を受け付けないといった内容も含まれていました。幕府が抱える裁判の数を減らしたくてこのような内容も盛り込んだということになります。しかしこれら再審の禁止やお金の貸し借りに関する訴訟の却下といった内容は反発が強かったせいで徳政令が出されてから短期間で取り消されることとなりました。

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今回は永仁の徳政令について一部取りあげました。幕府が御家人の人々の不満を和らげるためにも取り組んだ政策だったはずなのですが、効果がそれほど無かったと言われているようですし、失敗した取り組みだったと言えるわけです。タダで土地を取り戻せるという強引な法令なのですから強い反発が出るのは明らかですが、そういったことを承知で幕府も法令を出したのでしょうから、よほどの事情があったということなのでしょう。この徳政令を出した背景が何なのか確認してみたくこのようなテーマの記事を作ってみることとしました。個人的に徳政令というものには借金の帳消しといった印象がありましたが、この永仁の徳政令は無償で土地を取り戻せるということであって、借金ではなく他人に売却した土地も含まれて来るそうですから想像していたものとは少し意味が違っていたみたいです。この徳政令のために御家人はお金を金融業者から借りづらくなってしまったことでかえって不満を持ったなどという影響も出たと言われています。一方に損を押し付けてしまうような強引な政策をとったとしても結局のところうまくいかないものなんですね。報酬として土地を与えるという幕府のとっていた仕組みは元寇のように幕府が新たに領地を増やしたわけではない戦いの場合に行き詰まりを見せてしまいます。

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

御家人を繋ぎ止めようとした幕府の滅亡について触れている話「鎌倉幕府が滅亡した時期はいつ頃だったのでしょう」はこちらです。

鎌倉幕府の元寇対策について触れている話「元寇に直面して鎌倉幕府はどのような対応をしたのでしょう」はこちらです。

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