フィリピンの島、レイテ島での日本軍の戦いについて
レイテ島とは?場所について
レイテ島という島はフィリピン共和国の領土となっている島です。フィリピンは台湾のちょうど南に位置しています。フィリピンは多くの島々からなる国ですが、特に大きい島にルソン島とミンダナオ島があります。北側にある大きな島がルソン島です。そして南側にある大きな島がミンダナオ島になります。このルソン島とミンダナオ島の間に複数の島々があります。そのルソン島とミンダナオ島に挟まれた島々の中で比較的大きめの島には、サマル島、レイテ島、セブ島、ネグロス島、パナイ島などがあります。これらの島々の中で一番東側にあるのがサマル島でその西隣の島がレイテ島になります。
第二次世界大戦時のフィリピン
昭和十四年、西暦1939年、ヨーロッパでドイツがポーランドに侵攻することで第二次世界大戦が始まりますが、この頃は特にフィリピンで戦闘は起きていません。アメリカがフィリピンを統治していました。ただ、当時は昭和十九年、西暦1944年にフィリピンが独立することをアメリカが認めていました。昭和十六年、1941年の12月に日本がイギリスやアメリカに攻撃することで太平洋地域でも戦争が始まりましたが、フィリピンが影響を受けるのはこの時点からです。日米戦争が始まり日本軍が昭和十六年、西暦1941年12月にフィリピン領内に侵攻しアメリカ軍と戦います。昭和十七年、西暦1942年日本軍はアメリカをフィリピン領内から撤退させることに成功しました。フィリピンは日本の勢力下となり日本軍が駐留し政治をおこなっていたものの、日本もフィリピンの独立を認めることとなります。
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レイテ島での日本軍の戦い
昭和十九年、西暦1944年の10月にこのレイテ島で日本軍は上陸してきたアメリカ軍と戦いました。アメリカは日本が支配下に置いていたフィリピンを奪い返す考えでした。日本陸軍の中央と現地のフィリピンにいた陸軍の司令官でどのようにアメリカ軍と戦うか意見が分かれていたようです。陸軍の現地の司令官は駐留していた陸軍の多くを北側の大きな島、ルソン島に配置し、そこで米軍と戦う考えだったそうですが、陸軍の中央はフィリピンのルソン島に駐留していた陸軍の多くの兵員をレイテ島に派遣してレイテ島でアメリカ軍を迎え撃つよう主張しました。結局採用された方針はレイテ島でアメリカ軍を迎え撃つ案でした。しかしこの案は結果的にうまくいきませんでした。
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ルソン島からレイテ島に兵員や物資を輸送船で送ることになったのですが、輸送中アメリカからの攻撃に遭い大量の物資をレイテ島に運ぶことが出来なくなってしまったのです。レイテ島に上陸した日本陸軍の兵員たちは補給がされない中アメリカ軍と戦わなければならなくなりました。戦いに参加したアメリカ軍側の兵員は約20万人、一方日本側の兵員は約8万4千人。数からいってアメリカ側が有利ですし先ほども書いた通り日本側は補給が期待できない状態で戦わなければならないため一層不利となりました。島で戦っている途中、多くの日本の兵員が食料不足を理由に命を落とすことになってしまったそうです。アメリカ軍が上陸して2か月後の昭和十九年、西暦1944年の12月、レイテ島はアメリカ軍に占領されました。日本軍は多くの兵員をこの島の戦いで失ってしまいました。この戦いで戦死した日本の兵員は約7万9千人にもなったそうです。この戦いに参加した日本側の兵員の大半が亡くなられたということになります。
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今回はレイテ島でおこなわれた戦いについて一部取りあげました。フィリピンで行われた日本とアメリカの戦闘の中で有名なもののようですし、陸軍中央の主張した戦い方が大変な犠牲を招いたという点で重大な話のようにも感じたため記事にしてみることとしました。この戦いに関して調べている中で、日本軍の中できちんと情報が共有されていないことを知りました。レイテでの戦いの前に台湾沖で日米の海軍が戦い、日本が大きな戦果を挙げたという話があったそうなのですが、それは事実と異なっていたのだそうです。大勝利と公表された後、海軍側はそれ程相手に打撃を与えてはいなかったという結論を出したそうですが、陸軍側にちゃんとそのような分析を知らせていませんでした。陸軍と海軍で張り合っていたからなんでしょうかね。アメリカ海軍に相当被害が出たと判断した日本陸軍の中央は強気になりルソン島でアメリカを迎え撃つといったこれまでの方針を変更し、ルソン島から海上を長距離移動しなければならないレイテ島を迎え撃つ場所に選んでしまいました。補給が出来ないような場所で戦うことを選択すると本当にひどいことになってしまうということがこの戦いを調べてみてもわかりますし、それ以前にインド国境地域でおこなわれたインパール作戦でも補給がうまくいかず、たくさんの日本の兵員が命を落としました。レイテ島での戦いに関してはフィリピンで日本軍を指揮していた司令官がそのようなことを見越してレイテ島で迎え撃つことに反対しルソン島で戦うことを主張していたそうなので余計悔やまれます。このような不手際のように見える軍中央の判断のもとで多くの日本兵が戦わなければならなかったというのは本当に残念な話です。教訓としても是非このような出来事は語り継がれるべき話だと思いました。
今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。 <(_ _)>
※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。
第二次大戦中の別の地域の戦闘について触れている話「インパール作戦を生き残り帰還したといわれる日本兵の人数は」はこちらです。
第二次大戦中の別の地域での戦闘について触れている話「硫黄島の戦いでアメリカ軍が動員した戦力の規模は?」はこちらです。
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