徳川家康さんが将軍引退後に駿府を拠点とした理由は

徳川家康さんが駿府を選んだ理由

 

大坂の役(大坂冬の陣、夏の陣)に関連する記事でも触れましたが、徳川家康さんは慶長8年、西暦1603年に朝廷から征夷大将軍に任命され江戸に幕府を開くこととなり、約260年間も続く江戸時代が始まることになります。しかし2年間くらいで家康さんは将軍職を引退し息子である秀忠さんを朝廷から征夷大将軍に任命していただいて将軍という立場を引き継がせました。その後家康さんは幕府の本拠地である江戸を離れ全く別の土地を拠点とし、家康さんの存命中、秀忠さんと一緒に国内政治を仕切っていきました。家康さんが江戸から移り拠点としたのは駿河(するが)の国(現在の静岡県中部~東部の地域にあたるそうです)の中心地、駿府(すんぷ)でした。駿府は現在の静岡県の県庁所在地、静岡市にあたります。県庁所在地になっている場所なわけですから現在でもこの地域の中心地となっているわけですね。しかし家康さんは将軍を引退した後江戸にとどまらずわざわざ遠く離れた静岡の中心地になぜ移動したのでしょう。駿府を拠点とすることにした理由については、若い頃になじんだ土地だから、戦略上の要所だから、気候がいいから、要人が訪問しやすいから、食材がいいから、他には富士山や鷹狩、ナスが理由といった話もあるようです。

 

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若い頃になじみがあった土地

 

家康さんは7歳頃から10年以上のまとまった期間を駿府で過ごしました。当時三河(みかわ 現在の愛知県の東側)に領地を持つ家康さんの家は東海地方の一部(三河、遠江(とおとうみ)の国 今の静岡県西部、駿河の国 今の静岡県中部~東部)に大きな領地を持つ戦国大名、今川家の勢力に属していました。家康さんは家康さんの実家・松平家が今川家と協力関係にあることを証明するための人質として今川家の拠点、駿府に送り出されていたため、駿府で長期間滞在する期間が存在していたのです。人質というのはこの場合、家康さんの実家・松平家が今川家を裏切ったら松平家にとって大切な人材である家康さんが今川家に殺害されるという仕組みです。そうされないために松平家は今川家との協力関係を保とうとします。人質という形で駿府に滞在したものの家康さんは今川家から丁重に扱われていたという指摘が多いようで、限られた人しか教えを受けることの出来なかった非常に有名なお坊さんから教育を受けていたそうですし、駿府に滞在している時期に当時の今川家の当主、今川義元さんの親せきだった女性を正室に迎えるという縁談も受けていました。今川家にとって三河の国は非常に重要な地域だったそうで、その地域の勢力である松平家との関係を今川家の人たちは重視していたようです。ということで家康さんにとっては比較的平和に過ごすことの出来た思い出の土地だったのかもしれません。

 

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戦の上での要所

 

駿府は今川家という戦国時代の大名が拠点としていた場所だけあって、攻略する、外部から攻め込んで支配下に置くのがなかなかやりにくい場所だったようです。駿府の南側は海、太平洋ですし、駿府の北側には長野や山梨、静岡にわたって山々が連なる赤石(あかいし)山脈(南アルプスと呼ばれます)があります。駿府の西側には大きな川である大井川が流れていますし、駿府の東側にも大きな川、富士川が流れています。このように海や険しい山、大きな川で取り囲まれているので外部から駿府に攻め込むのが大変なわけです。ここを拠点に西日本の有力大名が東日本に攻めてくる場合に備えたという指摘もあるようです。家康さんが将軍引退後、駿府に移ったころは大坂に豊臣家が存在していましたし、徳川家にとっては油断できない時期でした。

 

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今回は家康さんが将軍引退後に駿府に移り住んだ理由について一部取りあげました。家康さんが江戸を幕府の本拠地にした理由や家康さんが日光に自分を神様としてまつる場所を作るよう指示した理由などをこれまで取りあげましたが、晩年に駿府を拠点とした理由がよくわからなかったのでこのようなテーマで記事を作ってみました。上の項目では若い頃なじんだ場所というのと戦略上の要所という点について項目を設けて触れてみましたが、他にも駿府が温暖で冬の時期でも過ごしやすいといったことや美味しいお米がとれる場所だとか、おいしいナスが早い時期から食べられる場所だとか、鷹狩にいい場所だとか、富士山という素晴らしい山を近くから眺めることの出来る場所だからとか、西日本の大名が江戸の将軍に参勤する途中立ち寄りやすい場所だからといった話もあるようです。どれも家康さんの発言だという話らしいですが、家康さんの本音と言いますか、最も重視した理由はどれなのでしょう。江戸よりも西で外部から攻略しにくい場所だったというあたり、戦乱が収まって間もない時期ですし現実的に考えると西日本の勢力を迎え撃つ戦略上の要所というのが理由なのかもしれません。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

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江戸時代の宗教政策について触れている話「江戸時代にキリスト教が禁止された理由は何なのでしょう」はこちらです。

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