サトウキビ栽培は日本の場合どのような歴史があるのでしょう

日本でのサトウキビ栽培の歴史

農産物の歴史について関心を持たれてこのページに来られた皆様、こんにちは!この記事では私なりに砂糖を作るために使用されている作物の一つ、サトウキビの日本国内での栽培の歴史について簡単に書いてみたいと思います。サトウキビという農作物にせよ、黒砂糖にせよ伝来したきっかけというのは中国大陸だったようです。色々な所で紹介されていますが、日本に黒砂糖が伝わったのは日本の朝廷が唐に使節を派遣していた時代だったと言われているようで、以前別の記事で取りあげた人物、中国大陸の国、唐の仏教僧侶、鑑真(がんじん)さんが奈良時代に初めて国内に持ってこられたという話があります。鑑真さんは正式な仏教僧侶になるためのしきたりをおこなうことが出来る非常に重要な人物で、日本国内で仏教の教えに即した正規の僧侶を大勢輩出させるきっかけを作ったかたですが、日本に薬や彫像の技法を伝えたことも有名です。鑑真さんが日本に黒砂糖を持ってきた当時、黒砂糖は薬として使用されていました。高級品として黒砂糖などが輸入品として日本にやって来るようにはなりましたが、国内でサトウキビを栽培し、サトウキビから砂糖を作るようになったのは鑑真さんが日本にやって来た時代からだいぶ経過します。日本が江戸時代に入ってそれ程年数が経っていない頃にサトウキビが南西諸島に持ち出され栽培や製糖に繋がっていったようです。

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中国大陸からサトウキビと製糖法

1600年代前半に奄美出身の直川智(すなおかわち)さんというかたが航海中遭難した結果たどり着いた中国大陸でサトウキビ栽培と製糖方法を学び密かに奄美にサトウキビの苗を持ち帰ったという話やまだ琉球王国の時代だった沖縄でお役人さんをされていた儀間真常(ぎましんじょう)さんというかたが関係者を中国大陸に派遣してサトウキビから黒砂糖を作る方法を学ばせて沖縄に伝えたといった話があります。沖縄や奄美などの南西諸島でこういったサトウキビの栽培と製糖方法が根付き、非常に利益になることに目を付けた薩摩藩が奄美など地元の人々に圧力をかけ黒砂糖が積極的に生産されることとなりました。

幕府の方針で他の地域でも

南西諸島でのサトウキビ栽培、黒砂糖生産は江戸時代の日本国内の需要をすべて満たしていたわけではなく輸入も必要となっていました。オランダなどから砂糖を輸入する代わりに日本国内の貴金属で支払われることとなって日本から金や銀などが流出していったそうです。そのような状況は望ましくないということで、日本国内でも砂糖をもっと生産して輸入量を減らして日本から金を始めとした貴金属をあまり流出させないようにしようという目的から南西諸島以外の地域でもサトウキビ栽培が奨励されるようになりました。18世紀にはこれによって四国の讃岐(さぬき 現在の香川県にあたる地域)、阿波(あわ 現在の徳島県にあたる地域)、土佐(とさ 現在の高知県にあたる地域)や東海地方でもサトウキビが栽培されるようになりました。

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開国や日清戦争で変化

江戸末期、日本が開国した後は他国からどんどん砂糖が流入していきました。これにより国内での砂糖生産は影響を受け採算が合わなくなったこともあり南西諸島以外の地域ではサトウキビ栽培が廃れていったそうです。ただ特有の砂糖生産に繋がる品種の場合は南西諸島に比べれば規模が小さいながらも香川、徳島での栽培もおこなわれていました。日清戦争によって日本が台湾を領有することになってからは台湾がサトウキビ生産の一大拠点となります。製糖事業も台湾では盛んになりました。第一次世界大戦によってサイパンなどの島々を領有することとなった日本はそのような南洋の島々でもサトウキビ栽培を積極的におこない製糖事業が発展しました。第二次世界大戦に敗れて南洋での日本によるサトウキビ栽培は終わることとなり、台湾も日本統治ではなくなり、日本のサトウキビ栽培は南西諸島が再び中心となります。

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今回は日本でのサトウキビ栽培の歴史について一部取りあげました。江戸時代の特産品の中に薩摩の黒砂糖がありましたが、サトウキビというのは日本でいつ頃から栽培されることになったのか確認してみたくなりこのようなテーマの記事を作ってみた次第です。直川智さんの場合は中国大陸からサトウキビの苗を隠して持ち出し奄美での栽培に成功させたと言われていますが、当時大陸からサトウキビの苗を持ち出すようなことは禁じられていて、明(みん)のお役所に知られた場合には命にかかわることにもなりかねなかったそうですから大変危険な行為だったわけです。それだけの危険を冒してまでサトウキビの苗を持ち出したというのですから直川智さんはサトウキビによる経済的な可能性をすごく感じていたのでしょう。実際、薩摩藩は黒砂糖の生産で大変な利益を得ていたそうです。ただ奄美の方々は食料に必要なさつまいもの栽培よりもサトウキビ栽培を薩摩側の指示で優先させられて辛い状況となったなどという話もあるようですし、サトウキビが利益をもたらす作物だったとはいえ地元の方々にはいいことばかりではなかったようですね。時代を経て現代の日本でも南西諸島ではサトウキビ栽培が非常に重要な産業であり続けています。TPPによる影響を懸念した過去の国会の決議ではお米や麦、牛肉や豚肉、乳製品などと共にサトウキビなどの砂糖生産に関わる作物についても自由化に反対していたと思います。砂糖関連産業というのはそれだけ日本社会にとって重要な分野なんですね。

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。

<(_ _)> ※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

今回の記事ではtatatotoさんによる写真ACからの写真を使用させていただいております。

今回の記事で登場する鑑真さんについて触れている記事「唐招提寺誕生のきっかけとなった人物、鑑真(がんじん)とは」はこちらです。

江戸時代の日本と大陸の明の関係について触れている記事「江戸時代の日本は中国大陸の国とどんな関係だったのでしょう」はこちらです。

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