江戸時代のキリシタンに大きなかかわりのある踏み絵とは

キリシタンに厳しかった江戸時代に使われた踏み絵とは

江戸時代の歴史に関心を持たれてこのページに来られた皆様、こんにちは!この記事では私なりに江戸時代に使われていた道具、「踏み絵 ふみえ」について書いてみたいと思います。踏み絵というのはキリシタン、キリシタンというのはキリスト教信者のことを意味する呼び名ですが、そのような方々を判別するために江戸幕府が使用していた道具です。イエス像、あるいはマリア像が表面にかたどられた板で、木製あるいは真鍮(しんちゅう 亜鉛や銅の合金)で出来ている場合が多かったようですが、そのような物を置き、人々にその道具の表面にかたどられているイエス、あるいはマリアを踏ませます。踏むことのできる人はキリシタンではないと判定され、おとがめは無く、踏むことの出来なかった人はキリシタンと見なされ幕府のお役人に拘束されてしまうこととなりました。江戸幕府が国内でのキリスト教勢力拡大を阻止するために採用していた一つの方法のようです。九州地方を中心に踏み絵による判定が実施され幕府に拘束され命を落とす信者も出てしまうこととなりました。他の地域と異なり九州は他国の船の出入りが認められた場所のあった地域でしたので、他国の人々からのはたらきかけによるキリスト教入信の機会もそれだけ他の地域に比べ多かったということのようです。実際江戸幕府が鎮圧にかなり苦労したと言われる反乱事件、島原の乱が起きたのは九州の島原(しまばら)、現在の長崎県が存在する地域でした。

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踏んだ人もおられました

踏み絵を踏まなかった場合、前の項目でも触れた通りキリスト教信者と判定されて身柄を拘束されてしまいます。当時はキリスト教を信仰することが人々に禁止されていたので、信仰していたら規則違反ということになりました。幕府のお役所に連れて行かれた後はキリスト教信仰を捨てるよう幕府のお役人から圧力をかけられることとなります。ここで、「もうキリスト教を信仰しません」と捕えられたキリシタンが意思表示した場合、それ以上おとがめは無かったそうで身柄も解放されました。幕府は幕府なりに処罰を回避するための機会をキリシタンに与えていたようです。しかし頑として信仰を捨てないとする方々もおられ、そういった人たちは拷問や処刑といった厳しい処罰を加えられ命を落としてしまうこととなりました。幕府の姿勢がかなり強硬だということは当然世の中に広まります。キリシタンの中にはキリスト教信仰を捨てるのも嫌だし、信仰を理由に幕府に処刑されてしまうのも嫌だということで幕府の前ではキリシタンではない立場を装い地元の寺院関係者には仏教徒として届け出をして密かにキリスト教信仰を持ち続ける方々もおられました。隠れ(かくれ)キリシタンという人々はそうやって幕府からの弾圧を逃れていたようです。そういった方々は幕府に目を付けられないようにするため踏み絵を用いた判別の場でも堂々とイエス像やマリア像を踏んでいました。もちろん内心では喜んで踏んでいたわけではなく、そのようなことをした後は人の見ていない所でキリスト教の神様に対して許しを乞うていたのでしょう。

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宗派の影響

江戸時代のキリシタンの方々は南蛮(なんばん)とくくられていたスペインやポルトガルといった国々の商船を利用して訪日したキリスト教聖職者による布教を介してキリスト教に出会い信仰の道を選んでいました。スペインやポルトガルといった国々の場合、密接な関係にあったキリスト教の宗派はカトリックでした。カトリックという宗派はイエスやマリアといった方々の像や絵画を宗教活動の場でよく使用しています。またイエスを産んだマリアという人物を非常に重要視しています。これがプロテスタントという別の宗派になりますと神様を物でかたどってそれをあがめるような考え方、行為を聖書で戒められている偶像崇拝と見なして忌み嫌っています。またプロテスタントではマリアという人物を神聖視していないようです。以上のような事情から踏み絵を踏むことを教義に反することと考えてしまうのはカトリックの信者の方々であってプロテスタントの信者の方々であれば踏み絵を踏むこと自体を神様に対する冒涜と関係付けなかったかもしれません。

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今回は江戸時代の踏み絵について取り上げました。江戸時代のキリスト教弾圧は別の記事でも触れたことがありましたが、キリシタン摘発の方法の一つ、踏み絵はあまりよく知らなかったこともあり、どういったものだったのか確認してみたく今回のようなテーマの記事にしてみた次第です。同じカトリックの信者の方々であっても踏み絵を前にした対応は様々だったんですね。命を奪われるような大変な事態となるのであればキリシタンであることをひた隠しにして幕府側を欺くのも無理もないことのように感じます。教義に忠実に従い踏み絵を踏むのを拒否し、役人から信仰を捨てるよう圧力をかけられても信仰を持ち続け処刑された人々というのは本当に凄まじい信念を持った方々ですね。とても真似できません。踏み絵のことを調べているとキリスト教弾圧の話も自ずと目にすることになりましたが江戸幕府第二代将軍の徳川秀忠さんは年齢性別関係なくキリシタンの方々を処刑するような非常に厳しい姿勢でキリスト教に臨んだようです。島原の乱がおこる前に秀忠さんは亡くなっていますので、キリスト教勢力の影響を受けた目立った反乱を経験していなかったと思うのですが、どうしてそこまで厳しくしたのかよくわからないところです。キリスト教信者の急激な増加に脅威を感じたという指摘はあるようですが、他にも政権担当者しか知ることのできないようなキリスト教勢力による恐ろしい陰謀のような機密情報を掴んでいたのでしょうか(私の勝手な推測です)。

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。

<(_ _)> ※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

今回の記事ではひぃろさんによる写真ACからの写真を使用させていただいております。

キリスト教に対する江戸幕府の姿勢について触れている話「江戸時代にキリスト教が禁止された理由は何なのでしょう」はこちらです。

徳川政権の前の政権、豊臣政権のキリスト教政策について触れている話「秀吉さんがバテレン追放令を出した理由は何だったのでしょう」はこちらです。

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