松平容保を頼りとしていた孝明天皇の急死と明治天皇の即位
孝明天皇が頼みにしていた松平容保公
1862年(文久2年)に会津藩の藩主、松平容保(かたもり)公は京都守護職(しゅごしょく)になるようにという幕府からの要請で就任し京都で活動するようになりました。京都守護職は朝廷のある京の治安を守る大変重要な役職です。攘夷派の過激な行動が続発し京の治安は当時乱れており、従来存在していた京都所司代(しょしだい)という幕府管轄の機関だけでは対応しきれない状態でした。
当初容保公は攘夷派の言論活動であっても許していたようですが、それでも暗殺などの事件が続発したことで攘夷派に対し厳しい姿勢で臨む方針に変更しています。新選組のような治安組織も京都守護職の所属とし精力的に治安の維持に努めました。
二年間の働きを見て孝明天皇も容保公を頼みとしていたようで1864年の第一次長州征討の時に京都守護職が容保公から越前藩の前藩主、松平慶永(よしなが)公に交代となった時には孝明天皇は容保公が京都を離れることを大変に残念がったそうです。長州征討が終わったらまた京都守護職に容保公が就任することを切望していました。また病気療養中にもかかわらず守護職の任務をこなしている容保公を心配し孝明天皇は病の改善を祈り、折に触れて見舞いの品を贈っていたそうです。
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孝明天皇の急な薨去(こうきょ)
第二次長州征討が長州藩の善戦する中、停戦となったのは1866年(慶応2年)の9月でした。その三か月後の1866年(慶応2年)12月に孝明天皇は35歳という若さで薨去されました。(天皇が亡くなられた時は薨去(こうきょ)という表現を使うそうです。)死因は天然痘だと言われています。
江戸時代末期に人が35歳という年齢で死亡することは妥当だったのかよくわからないのでそれ以前の天皇が薨去された年齢を確認したいと思います。
孝明天皇の先代は仁孝(にんこう)天皇でした。第120代の天皇です。満45歳で薨去されています。
仁孝天皇の先代は光格(こうかく)天皇でした。第119代の天皇です。満69歳で薨去されています。
光格天皇の先代は後桃園(ごももぞの)天皇でした。第118代の天皇です。22歳で薨去されたそうです。
三代さかのぼってみましたが、かなり若い年齢で薨去された天皇もおられるようです。
孝明天皇は幕府を倒すという考えは持たず、朝廷と幕府が協力し政治課題に対応するという立場を維持していました。攘夷派を支持する公家の方たちも少なくない中、幕府と敵対することを求めていない孝明天皇の存在は幕府にとって非常に重要だったと思われます。将軍家茂(いえもち)公が7月に死去されており、5か月後には幕府が理解者として頼りにしていた孝明天皇も薨去されてしまいます。この頃の幕府は本当に不運続きです。松平容保公の落胆も相当なものだったのではないでしょうか。
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明治天皇の即位
孝明天皇の薨去により新しい天皇が即位されます。明治天皇です。1852年にお生まれの方なので天皇となられた時は満14歳だったことになります。14歳ですから、天皇として活動するにはサポートする人材が必要ですよね。そのようなサポートする立場の一つに摂政(せっしょう)という役職がありますが、明治天皇が天皇となられた時には摂政がついていたそうです。
この時摂政だったのは二条斉敬(なりゆき)さんという人です。公家の方ですね。孝明天皇が頼りにしていた方だったそうです。しかしこの二条さんが摂政として天皇のお手伝いをしたのは1867年の12月まででした。摂政関白制度がこの時点で廃止となってしまったからです。しかしこの時でも明治天皇はかなり若いことに変わりはありません。
その後明治天皇の周りにいたのは新政府の人たちでした。朝廷の状況は大きく変化していきました。
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第二次長州征討以降幕府を取り巻く環境は大きく変化しましたが、中でも今回取りあげた孝明天皇の薨去は重大ですよね。でも高校の歴史ではそれほど大きくは取りあげていなかったように思います。
天皇がかわられた後は孝明天皇時代であれば決して天皇が出されることはなかったであろう倒幕の密勅のようなものも出てきます。こういう重大な時期に天皇が薨去されるというような状況ですと様々な説が飛び交いますね。真相など私にわかるはずもありません。
ただ、幕府を倒したいと考えている人たちにとっては次第に環境が整っていく展開になったであろうということは言えると思います。
今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。 <(_ _)>
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