紙幣にも採用された岩倉具視とは?倒幕の密勅についても

岩倉具視さんの肖像画が使われた紙幣

 

現在、流通しているのを見ることはまず無いと思いますが、以前は500円札という紙幣がよく使用されていました。その500円札に岩倉具視(ともみ)さんの肖像画が使用されていました。500円札については他の人物の肖像画も使用されたことがあるのか調べてみましたがどうやら岩倉具視さんの肖像画だけのようです。

この岩倉具視さんの顔が載っている500円紙幣ですが、二種類あるそうです。1951年から発行されたパターンと1969年から発行されたパターンの二種類です。

私が実際に手に取ったことのある500円紙幣は1969年以降に発行されたパターンのものだけですね。透かしはどちらのパターンにもあり、古いほうは500という数字、新しいほうは桜の花や川が見えるように作られました。500円札は現在でも使用が可能な紙幣です。

 

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岩倉具視さんとは

 

岩倉具視さんという人物は江戸時代末期から明治時代にかけて歴史でよく名前の出てくるかたです。朝廷につかえていた貴族、公家の方ですね。明治新政府以降は政治家として活動しました。

この方は江戸時代末期から倒幕派の中心人物で、明治新政府発足当初から政府の要人として活動していたようです。版籍奉還を政府に提案し日本中の藩の領地を中央政府の物とし中央集権の仕組みへ変更することに関わっています。

また、日本の憲法を作る時にも、どの人物に憲法作成を任せるべきか発言力を持っていたようです。結局は伊藤博文さんが中心となって明治憲法が作られることになります。天皇に大きな権限があることを規定しているという特徴を持った明治憲法の誕生に大きな影響を与えたわけです。

外務省のトップとなったこともある方で、その任務に就いていた時に視察目的で米国に渡航されています。西洋文明の発展した姿を目にして大変驚いたらしく、諸外国への留学の必要性を強く感じたそうです。

 

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倒幕の密勅とは

 

1867年の10月に朝廷から秘密裏に薩摩藩や長州藩に対して出された命令です。「勅」とあるので明治天皇も内容に目を通していることにはなると思われますが、明治天皇が筆を入れた形跡がありません。天皇が目を通されていない内容であった可能性が指摘されているようです。

密勅の内容は簡単に言えば第15代将軍、徳川慶喜(よしのぶ)を討伐せよというものでした。何故討伐せよという命令を出すのか、理由についてですが徳川慶喜は江戸幕府の武力や権威を利用して朝廷の忠臣を殺害し天皇の命令を聞かず、孝明天皇の発言を偽り、日本の民を谷間に突き落とすような所業を行っておきながら反省する様子を見せない、というような内容が書かれています。大悪人であるかのようですね。

この密勅の内容を作成したのは玉松真弘(たままつまひろ)という人物だそうで、この玉松さんは岩倉具視さんのブレーンだったかたのようです。そのため、この倒幕の密勅が朝廷から薩摩藩、長州藩に出されたことについては岩倉さんが大きく関わっているという話があります。

 

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今回は倒幕の密勅を取りあげてみようと思い調べていたのですが岩倉具視さんが関わっているという話もあるようなので岩倉さんについても調べてみました。かつては攘夷派の勢力から幕府擁護派と見なされ、にらまれていた時代もあったようですが、いつの間にか長州や薩摩と共に幕府を倒す側として活動していますね。500円札の肖像としても使われているくらいですから、今の日本の世の中では非常に評価されている人物ということになるかと思います。

明治天皇が筆を入れていない「密勅」で長州藩、薩摩藩が倒幕のために行動を起こしたということであれば、討幕勢力側が明治天皇を利用したという批判は出てくるのかもしれません。明治天皇には事後承認してもらえばよいと考えていたのかどうか。そこはよくわかりませんが、15、16歳という若さの明治天皇にそのような判断を任せるのは普通に考えれば酷なのではないかと思いました。時期を同じくして幕府側からは大政奉還の上表(じょうひょう。君主への意見が書かれた文書のことです)が朝廷に提出されることになります。大変混乱した時期ですね。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

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