関ヶ原の戦いのあと豊臣家の領地はどうなったのでしょう

「関ヶ原」の後の豊臣家の領地

 

慶長5年、西暦1600年に徳川家康さんが率いる東軍と反徳川勢力だった西軍に分かれて戦われた関ヶ原の戦いにより、国内の勢力図は大きく変化しました。関ヶ原の戦い以前から他の勢力に比べ抜きんでた存在でしたが、徳川家が更に大きな力を持つようになりました。一方西軍が負けたことで徳川家康さんと関係が良くなかった武将の方々の多くは処刑されたり、流刑、島や政治経済の中心地から遠ざけられた地域に移動させられたり、領地を没収されたり、大幅に領地を減らされたりします。先日記事にした九州南部の勢力、島津家の事例は領地を減らさずに済んだという非常にまれな場合の話でした。前回触れました中国地方の勢力、毛利家の場合は100万石以上の領地を30万石弱にまで減らされてしまいます。そういった西軍に参加した武将が処罰されたことと性質は異なりますが豊臣秀吉さんの家系、豊臣家の領地も関ヶ原の戦いの前後で大きく変化したという指摘は多いようです。具体的には豊臣家が管理していた領地、200万石くらいの大変な広さの土地がだいたい65万石くらいに減少してしまったということのようです。3分の1以下に減ってしまったことになります。

 

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豊臣家の立場

 

200万石が65万石に減らされたのは関ヶ原の戦いとどう関係するのでしょう。豊臣家は1600年当時、秀吉さんはすでに亡くなられていて、後を継ぐ立場の人物は豊臣秀頼さんでした。この豊臣秀頼さんは関ヶ原の戦いに参戦しているわけではありません。豊臣家からすると徳川家康さんが率いた東軍勢力も、反徳川勢力の西軍も同様に豊臣家の家臣の立場でした。関ヶ原の戦いは家臣間の戦いという性格の戦だったため豊臣家はどちらの軍にも加担せずにいたのです。そのため東軍が勝っても西軍が勝っても、勝った側は豊臣家の家臣という構図に変化はありませんでした。豊臣家は主君のままです。

 

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豊臣家の領地が減ったのは

 

中立の立場の豊臣家の領地がなぜ減る結果となったのでしょう。東軍が勝利し西軍への処罰や東軍側の武将に対する褒美の供与を実際におこなった、内容を決定したのは家康さんだったようですが、全国に存在していた豊臣家の領地を西軍に参加した武将から奪った土地と一緒に褒美の領地として与えてしまっていたようです。豊臣家の全国に存在していた蔵入地(くらいりち)という名前の土地は他の武将の領地内に存在していたような性格の土地で「~の国一国丸ごと豊臣家の領地」といったものではありませんでした。そういったこともあって区別させにくかったのかもしれませんが、豊臣家が蔵入地を恩賞として東軍側武将に与えたという形になっていたという指摘もあるようです。全国に点在した蔵入地が無くなっても和泉国、現在の大阪府の南西部、河内国、現在の大阪府東部、摂津国、現在の大阪府北部、兵庫県東部に65万石の領地を持つ有力な勢力であることに変わりはありませんが、処罰を受けるという形ではないにせよ相当な財力を失う結果になったということは言えます。

 

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今回は関ヶ原の戦い後の豊臣家の領地の変化について一部取りあげました。歴史の教科書で豊臣家が一大名の立場に転落したといったような記述があり、どういった経緯で豊臣家が領地を減らすことになったのかよくわからなかったためこのような関連したテーマの記事を作ってみることにしました。200万石もの規模の経済的利権を65万石に減らす結果になるわけですから、実態はどうであったかわかりませんが形式的には当時豊臣家の家臣であった家康さんがそのような決定を豊臣家の了承を得ずに勝手におこなうとは思えませんので恩賞という形で豊臣の領地を東軍武将に与えたことを豊臣家も認めたということなのでしょう。関ヶ原で勝利した家康さんにそのような話を持ちかけられ、豊臣側としては内心は蔵入地を守りたかったけれども家康さんの意見に反対するのも難しいので渋々認めたということなのかもしれませんが。家康さんが豊臣秀頼さんにお寺や神社への寄付を奨励して豊臣家の経済力を弱めようとしたなんていう話を聞いたことがありますが、恩賞という形で蔵入地を豊臣家からとったのも同じような目的があったということなんでしょうか。豊臣家としてはどうしたらよかったのでしょう。蔵入り地の税収の30パーセントは地元の領主に供与して残り70%は引き続き豊臣家のものとするような、そういった一部供与の形になるよう家康さんに指示したらよかったんでしょうかね。そうすれば家康さんからの蔵入地の供与という申し出を100%否定することにもなりませんし。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

徳川勢による豊臣家侵攻について触れている話「大坂夏の陣と冬の陣とではどっちが先だったのでしょう」はこちらです。

覇権獲得を巡る徳川方のやり方について触れている話「徳川家康さんが将軍を担当した期間はどれくらいなのでしょう」はこちらです。

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