一条件でのポツダム宣言受諾とした御前会議の構成メンバーは
当時の御前会議の主な構成メンバーは
西暦1945年(昭和20年)8月9日の深夜から昭和天皇の御臨席された会議、御前会議(ごぜんかいぎ)が開かれました。この会議でポツダム宣言に対し日本国がどのような姿勢を示すか方針が定まることとなりました。この会議に参加した方々ですが、御前会議ですから当然昭和天皇は御臨席になっています。ただ、御前会議というものは昭和天皇が基本的に議論に参加するような会議ではなく、議論の結果を了承するような運びとなるもののようで、これは政治に関与することによって天皇に責任が及ぶのを防ぐための配慮だそうです。この時の会議で議論をすることとなる主な構成員は内閣総理大臣、枢密院議長、海軍大臣、外務大臣、陸軍大臣、海軍軍令部総長(かいぐんぐんれいぶそうちょう)、陸軍参謀本部総長(りくぐんさんぼうほんぶそうちょう)の立場にあった方々でした。当時総理大臣を担当されていた方は鈴木貫太郎(すずきかんたろう)さんです。枢密院(すうみついん)議長を担当されていたのは平沼騏一郎(ひらぬまきいちろう)さんです。海軍大臣を担当されていた方は米内光政(よないみつまさ)さんです。外務大臣を担当されていた方は東郷茂徳(とうごうしげのり)さんです。陸軍大臣を担当されていた方は阿南惟幾(あなみこれちか)さんです。海軍軍令部総長を担当されていた方は豊田副武(とよだそえむ)さんです。陸軍参謀本部総長を担当されていた方は梅津美治郎(うめづよしじろう)さんです。以上の七名の方々が議論し昭和天皇がその結果を了承するというのが本来の段取りでした。
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鈴木貫太郎さんは元々海軍の軍人だった方ですが戦時に必要となった時や訓練時にだけ招集される立場の予備役の軍人となられた後に昭和天皇の侍従長や天皇の諮問機関(天皇から求められた際に意見を申し上げるための機関です)である枢密院の議長などを担当した経歴を持つ方です。平沼さんは鈴木さんが枢密院議長を退任された後に議長に就任された方で、検察や判事など司法の分野で非常に活躍されてきた経歴を持つ官僚出身の方です。総理大臣の経験もあるかたでした。米内さんは1940年に内閣総理大臣を担当されたことのある方です。この会議に参加した時海軍大臣の立場でしたが、1937年にも海軍大臣を担当されたことがあります。海軍での最終階級は海軍大将でした。東郷さんはこの会議に外務大臣として出席されていましたが、それ以前にも東条内閣で外務大臣を担当したこともある外務官僚出身の方です。阿南さんは1945年から陸軍大臣を担当されていてそれ以前に大臣経験は無い方でした。最終階級は陸軍大将です。海軍軍令部というのは海軍の作戦を立てたり、海軍を指揮する役割を務める機関です。海軍省、海軍大臣に所属しているわけではなく、天皇直属の機関です。この海軍軍令部のトップが海軍軍令部総長です。海軍の海軍軍令部にあたる機関が陸軍の場合は陸軍参謀本部です。参謀本部のトップが参謀本部総長です。8月9日深夜から始まった会議ではポツダム宣言をどのような条件を付けて受諾、受け入れるかが以上の方々によって話し合われました。
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二分された意見
会議に参加された構成員の意見を述べてもらう形式だったようですが、1945年の7月に連合国側の中心国であったアメリカやイギリス、中華民国が共同で表明し8月9日にソ連も参加することを公表したポツダム宣言に対し天皇の立場や権限を維持することを条件に宣言を受け入れて戦争を終わらせるべきだという意見と戦争犯罪人に関する処罰の仕方、武装解除の仕方、連合国軍による日本占領のやり方に関しても条件を付けてポツダム宣言を受け入れるべきだという意見に分かれました。天皇の立場や権限を保持することを国体護持(こくたいごじ)という言葉で表現することがあります。国体護持のみ条件としてポツダム宣言を受け入れることを主張した人たちは枢密院議長と外務大臣と海軍大臣でした。国体護持の他にも上で挙げた3つの条件も付け加え、4つの条件を付けてポツダム宣言を受け入れるべきと主張したのは陸軍大臣と海軍軍令部、陸軍参謀本部の総長達でした。こうして意見が一つにまとまらず首相は昭和天皇にご意見を求め、昭和天皇の御意見を会議の結論とさせていただきたいという会議の進め方をおこないました。非常に異例な対応です。首相の申請に対し昭和天皇は御意見を述べられることをお断りにならず、国体護持のみを条件としてポツダム宣言を受け入れるという外務大臣らが主張する意見に賛成の御意思を示されました。こうして会議の結論は国体護持のみを条件としてポツダム宣言を受け入れるということとなります。
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今回はポツダム宣言の受諾に関する日本国最高指導部の会議に関して一部取りあげました。支那事変(日中戦争)から数えると8年間も日本国が戦い続けてきた戦闘、戦争を終わらせる決定的な出来事がこの会議ですし、この決断によって更なる戦争継続でたくさんの日本国民の命が奪われるのを回避することとなったわけですから、本当に重要な出来事です。今を生きる日本国民としてはこの会議の結論が「国体護持のみを条件にポツダム宣言を受け入れる」となって本当に良かったと感じています。計4条件を付けてポツダム宣言を受け入れると連合国側に伝えても連合国側がそれを認める可能性は低いのでしょうから。陸軍大臣に代表される意見が通ってしまえば日本本土での戦闘が現実化し大変な数の日本国民が犠牲となっていたのでしょう。後に責任を問われる危険性がありながら首相の求めに応じ一条件のみでの受諾というご意見を述べられて会議の結論を出された昭和天皇の御決断に感謝申し上げたい思いです。
今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。 <(_ _)>
※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。
今回の話にも出てくるポツダム宣言。この宣言に関する記事「ポツダム宣言にある内容は簡単に言うと何だったのでしょう」はこちらです。
終戦後の軍事裁判について触れている話「東京裁判で死刑判決が出たA級戦犯はどなただったのでしょう」はこちらです。
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