宋の宰相だった王安石によって進められた新法改革とその失敗

王安石さんの新法改革は失敗しました

大昔の中国大陸で発生した出来事やかつて存在した王朝の歴史、日本と交易があったことでも知られる王朝、宋(そう)にまつわる話題について関心を持たれてこのページに来られた皆様、こんにちは!この記事では10世紀に誕生し中国大陸の広い範囲を支配した宋が国の運営に行き詰まったことで台所事情などを立て直そうという試みが行われた出来事について私なりに書いてみたいと思います。この記事の題や項目の見出しにも挙げました通り、宋の仕組みを変更しようとした王安石(おうあんせき)という人がおられたのですが、この人物に率いられておこなわれた制度変更は結果的に失敗に終わります。失敗した理由は政権内で王さんの制度改革に反対する意見が強まってしまったからということのようですが、一般の民衆から不満が吹き上がったことで王さんが追いつめられたわけではないようです。王さんがおこなった新たな政策は新法(しんぽう)と呼ばれました。一方で従来行われていた政策は旧法と呼ばれ区別されました。王さんは宋王朝の第六代皇帝である神宗(しんそう)から国の政治実務を担当する宰相(さいしょう)に任命されたお役人さんです。宋の政治に携わる官吏のお一人であった方なわけですから、大変難関だったことで知られる役人登用試験、科挙に合格したすごく優秀な人です。彼は単に科挙に合格したというだけではなく、合格した時には合格者の中で四番目に成績が良かったそうなのでとんでもなく頭脳明晰な人であったに違いありません。彼のおこなった改革について皇帝、神宗さんは基本的に支持する立場だったので神宗さんがご存命の間は王さんがおこなった新たな政策は継続されていました。しかし神宗さんが死去されたのちは新法反対派の意見が相当強かったということなのでしょう、王さんが導入した政策が廃止されてしまったそうです。新たな政策が導入されたとか廃止されたと言っても具体的にどのような政策をおこなったかを説明しないとわかりにくいかもしれないので次の項目で説明いたします。

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どのような政策を導入したのか

どの様な政策をおこなったのかということについてですが、まずは農民対象の政策である青苗法から。青苗法は「せいびょうほう」と読むそうです。この政策は生活が行き詰っているような農民に宋の政権がお金あるいは農作物を栽培するために欠かすことの出来ない種(お米の栽培の場合は籾 もみ)を決められた利子で貸し出すというものです。政権側が貸し出すのは春や正月だったそうで、その年の秋あるいは夏に貸し出した元本と利子を政権側に返済するという決まりでした。秋あるいは夏の時期になると農作物が成長し収穫できます。その収穫した作物自体を納めるか、収穫物を換金して元本と利子に見合うだけのお金を政権側に返済するということになります。重要なのは政権側が貸し出す際の金利です。政権側は農民に対し20~30%の金利で貸し出しました。今の日本で法的に許される貸金業者の金利というのはどれくらいなのか調べてみましたら、貸すお金の額にもよるのだそうですが、利息制限法によれば10万円未満の借金の場合は年20%まで、100万円以上の借金の場合は年15%までということになっています。それなら王さんの新制度は半年くらいで20~30%の利子をつけて返済しなければならないのでとんでもない高利貸しではないかと思ってしまうのが自然でしょう。しかし王さんの制度が始まる以前、農民はもっと大変だったのです。農民が生活に行き詰まり借金をする場合、大抵はその地域の地主さんから借りていました。どれくらいの金利で地主さんが貸してくれていたのかというと60%以上なのです。これはひどいですね。もっと高い場合には100%などということもあったそうで、人の足元を見るにも程があるように思いますが、そのようなことがまかり通っていました。そのような高金利借金に比べれば青苗法ははるかに良心的だったのです。この青苗法は農民救済の側面はもちろんありましたが、ギリギリの自作農民が経済的に落ちぶれて奴隷農民や農地を離れて流浪民化することを防ぎ、きちんと決められた場所で農作業をおこなって農作物を収穫し税を政権に納めてもらい国の税収をしっかり確保しようという目的もありました。奴隷農民や流浪民が増えてしまうと税を払ってくれる農民が減ってしまい政権に入ってくる税収もそれに伴い減ってしまうのです。

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政策の続き

青苗法だけで一項目使ってしまいました。新たに取り入れた仕組みは他にもあります。農民対象という制度というわけではありませんが、均輸法というものがあります。それまでは中央政権が必要とした物資は特定の地域から入手していたそうで、物資の種類や量も固定していたそうです。政権側に必要な物資を納入する際には商人が関与し、大して値段を勉強してくれることも無く、結構な価格で物資を納め、商人は大きな利益を得ていました。そして政権側にとって一旦入手はしたものの結果的に不要であった物資はかなり安い値段で商人に引き取ってもらっていたのだそうです。そのため商人が関与することで政権は余計な出費をしていました。そういった政権の出費を抑えるために試みたのが均輸法です。政権が必要とする物資は商人を介さず、多く生産される産地から直接買い取り、それほど多く産出する土地でないところからは無理に買い取らず、代わりとなる別の品物を買い取り、政権が必要としなくなった物資はその物資の値段が高くなっている時に売ったり、その物資を必要とする異なる地域で妥当な値段で転売して政権側の収入としました。物資を手に入れるときには当時物流の大変盛んだった揚州という地で仕事をしていた発運使(はつうんし)という役職に任命されていた人が政権から指示を受け実際に調達のために動き回っていたのだそうです。手ごろな値段で物資を仕入れ、不要となった物は政府がそれなりの値段で販売するわけですから、従来に比べ物資調達の経費が減り、転売による収入を得られるという利点もありましたし、特定の物資の値段が高い時に政府が販売することで物価が上がりすぎるのを抑える効果も期待出来ました。ただ政府に納入していた商人は利益を得る機会を失いましたし、政府による転売と競合することとなった商人は物資の値段が政権の転売価格より高いと一般の人々から相手にしてもらえなくなくなるので、高い値段で人々に売って大きな利益を得る機会を失いました。反対に消費者である一般の人々はそれほど高くない値段で必要な品物を購入することが出来たので均輸法によって恩恵を受けていたわけです。商人からすると面白いはずがないのは明らかです。

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高校の世界史でも扱われる宋王朝の新法という改革ですが、一言二言で新しい制度が説明されていることもあるようで今一つ分かりづらいなぁという印象を持ちました。調べてみて自分で理解できた内容を今回の記事では二つの制度について説明してみました。わかりやすく伝えることを心がけて書いてみたのですが、字数がどうも思っていたより必要となってしまいましたので今回の記事では青苗法と均輸法の説明で一旦区切らせていただきます。王さんが導入した新しい制度というのは他にもありますので出来れば次の記事で同じテーマについて扱い、他の制度についても説明したいと思います。今回の二つの制度を説明してみて感じますが王さんは経済的にそれほど強い立場にない人にとってはそれまでに比べて生活がつらくならないで済み、そして政権の利益になる仕組みを心がけていたのでしょう。その反面大地主や力のある商人といった経済的な強者の取り分を減らしたとも言えるように思います。他の制度に関しても似たような傾向が認められるものなのか次回の記事で確認してみたいと思います。今回は途中となってしまいました。申し訳ありません。関心がございましたら次の回の記事もご覧いただけましたら幸いです。

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

今回の記事では写真ACで提供されている画像を使用させていただいております。

宋から見ても大昔の王朝、後漢の衰退について触れている話「後漢が衰退した理由は何だったのでしょう」はこちらです。

近代日本の一部地域で人々の不満が爆発した出来事について触れている話「秩父事件とは?事件が発生した原因についても」はこちらです。

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