朝鮮で発生した壬午軍乱とは?閔妃さん一派の立場についても

壬午軍乱とは

 

壬午軍乱(じんごぐんらん)は西暦1882年(明治15年)7月に朝鮮国の漢城で発生した朝鮮軍の兵員を中心とした勢力による反乱事件です。

反乱勢力によって王宮が占拠されてしまった後、当時の国王であった高宗(こうそう)さんは父親である大院君(だいいんくん)さんに政治権力を譲り渡さざるを得ない状況となりました。

この反乱によって引き起こされた政変に反対する立場であり、当時朝鮮国を従属国にしていた清国は大院君さんを捕え清国に連行しました。そして高宗さんを再び政権の座に戻しました。また清国は政変の原因となった反乱勢力を鎮圧しています。清国によって朝鮮中枢の体制が回復された格好となります。

 

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閔妃さんの立場

 

西暦1876年に日朝修好条規(にっちょうしゅうこうじょうき)が結ばれ、朝鮮国は開国します。開国後、国王のお妃さんであった閔妃さんらが政治権力を握っていました。当時の朝鮮政権は近代化した日本から人材を招き軍の近代化を図るなど、日本との関係は強くなっていました。

しかし壬午軍乱が発生したことで朝鮮の権力中枢に清国の勢力が深く入り込むようになりました。高宗さんと閔妃さんは権力の座に戻ってきたものの、権力を再び手に出来たのは清国の軍隊が大院君さんを清国へ連行したことや反乱勢力を清国の軍隊が鎮圧してくれたおかげでした。さらに反乱鎮圧後も清国の派遣軍は朝鮮の中心地、漢城に駐留することとなります。

清国の軍事的圧力に抗して清国の従属国となってしまっている朝鮮の当時の状況を脱するという方針は掲げづらい環境となってしまいました。

このような状況の変化があり閔妃さんら朝鮮の政権側は清国の強い影響下に置かれることとなりました。壬午軍乱前は日本の人材が朝鮮軍の近代化のために活動していましたが、壬午軍乱後は清国が朝鮮国の近代化された軍を養成することとなります。

最初は日本との関係を強めていた閔妃さんらは反乱収束後、清国の勢力に従っていくことになります。

 

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壬午軍乱の原因

 

この反乱の中心となったのは軍の近代化から蚊帳の外に置かれていた朝鮮国の軍関係者たちだったそうです。彼らに対する政権の待遇は相当悪かったようで、その不満が爆発してこの壬午軍乱につながったそうです。またこの反乱を大院君さんが煽ったという指摘もあるそうです。

またこの反乱に一般の民衆も参加していたそうです。当時の貧困層は穀物の価格が高くなってしまっていることに強い不満を持っていました。朝鮮国が開国し他国へ朝鮮の穀物が流出したことや、当時作物が不作であったことなどから穀物価格が高くなってしまっていたそうです。穀物が流出していった貿易相手国である日本に対しても不満があったかもしれません。

 

壬午軍乱での日本側の被害

 

日本人がこの反乱で犠牲になっています。朝鮮軍の近代化のため教官として務めていた人や日本公使館で勤務していた人たちです。10人以上の方がお亡くなりになりました。

 

日本側の対応

 

壬午軍乱以前、朝鮮国と比較的関係が良好となっていた日本ですが、この反乱で日本に対し敵対的な姿勢を見せていた大院君さんが権力を握るのは日本の利益になりません。日本はさしあたって朝鮮国内の日本人を保護するため、軍艦や日本軍兵員を派遣しました。しかし清国側と日本側両方がこの反乱への介入を主張します。結局清国が反乱に介入し日本と朝鮮間の協議のために協力もするということで、日本もそれを受け入れる結果となりました。この清国の提案を日本が拒否した場合は日本と清国の間で武力衝突に発展しかねない状況だったようです。

日本は朝鮮側と協議し済物浦条約(さいもっぽじょうやく)という約束を交わすこととなります。この条約によって朝鮮は朝鮮国内にある日本公使館の護衛のために日本の軍隊が駐留することを認めました。また日本公使館を襲撃したことに関し賠償金、見舞金なども支払われることとなります。

 

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今回は朝鮮国内の動きに関して取り上げることとしました。日本の初期議会を取りあげてきましたが日清戦争の時期が近付いてきたため、その前に朝鮮国内の動きをまとめておいた方がよいかなと思ったからです。

壬午軍乱の発生した理由は朝鮮軍兵員に対する待遇のひどさだったそうです。俸給としてお米が配布されたそうですが、すでに悪くなったお米が混入している質の悪いものだったそうです。この扱いに相当怒ったようですね。治安維持に欠かせない軍の人たちが怒って反乱を起こしてしまったらそれを鎮圧する存在がいなくなってしまってお手上げですよね。先ほども書きましたが開国や不作で穀物が不足した状態だったこと、穀物価格が上昇していたそうですから、そのことも待遇の悪化に関係したかもしれません。

政権維持に軍のような治安を保つ存在は欠かせないでしょうから、高宗さんや閔妃さんたち政権側が軍を粗雑に扱って反乱を招き一時的にでも権力の座から追われたのはやはり失策だったのではないでしょうか。ただ当時の朝鮮政府に軍人の待遇を改善することが出来るだけの余力があったのかどうかはよくわかりません。もし王宮内で贅沢が行われて、国費が浪費されていたのなら不平を持った軍人たちの怒りは余計強まったでしょうね。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

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