朝鮮で発生した甲申政変とは?天津条約についても

甲申政変とは

 

甲申政変(こうしんせいへん)は西暦1884年(明治17年)に朝鮮国で発生した出来事です。当時の朝鮮国の政権に反対していた勢力が武力を用いて政治の実権を奪いました。この政権の奪取は一時的に成功しますが清国の軍隊が介入し、政変を起こした勢力を鎮圧します。その結果政権の乗っ取りは失敗に終わりました。

 

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甲申政変が発生する以前に朝鮮国の実権を握っていたのは、国王のお妃である閔妃さんらの勢力でした。この勢力は西暦1882年(明治15年)に発生した政変である壬午軍乱以前は日本との関係を重視していました。しかし壬午軍乱後は朝鮮国内で清の影響力が大変強まったことから甲申政変が発生する前の時期は清国との関係を重視していました。清国に近い勢力が朝鮮で政治をしていたわけです。

朝鮮国には当時の朝鮮が清国の従属下にあることを強く問題視していた勢力もありました。その勢力は日本との関係を強めて日本のように朝鮮国も近代化を速やかに行うべきだと考えていました。

当時朝鮮国の政権に就いていた勢力を事大党(じだいとう)と言い、清国に従属する関係を解消し日本との関係を強め朝鮮の近代化を進めようとした勢力を独立党(どくりつとう)と言いました。

独立党の中心的な人物には金玉均(きんぎょくきん)さん、朴泳孝(ぼくえいこう)さんといった人たちがいました。彼ら独立党は清国の力が弱まったとみて1884年に密かに国王の了解を得て計画を実行しました。清国の駐留軍が朝鮮に対し武力行使したと偽り国王である高宗さんに日本軍への協力を要請してもらいました。日本公使館護衛のために駐留していた日本軍は王宮の護衛にあたります。また、独立党側は閔妃さんらの勢力であった高官の人たちを殺害してしまいました。そして独立党側の人材を朝鮮政府の高官に据え、新政権が発足したことを表明します。

しかし事大党側の人物が清国側に軍を動員することや独立党勢力から高宗さんやお妃の閔妃さんを取り戻すことを要請します。結局清国側は軍を動かし独立党側と王宮を守っていた日本軍と交戦してしまいます。清国軍の軍勢に比べあまりにも日本軍の兵員が少ないことや実際の戦闘状況で日本側が劣勢であると日本の外交官が判断したことで日本公使館の代表であった竹添進一郎さんは日本軍の撤収を決めてしまいました。この判断によって独立党の後ろ盾は無くなってしまい、一方的な清国軍の攻勢で王宮は制圧されてしまいました。独立党の一部の人や日本公使館の職員、日本軍はこの混乱から公使館を放棄し仁川の港から日本へ避難することとなります。当時の朝鮮の中心地、漢城にいた日本人の方々がこの混乱で多数暴行などに遭い、犠牲となってしまったそうです。また独立党の関係者、親類の方々も事大党勢力によって多数処刑されるなど厳しい処置がとられる結果となってしまいました。

 

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政変後結ばれた漢城条約と天津条約

 

この甲申政変という出来事の後に日本と朝鮮国との間で漢城条約、日本と清国の間で天津条約が結ばれています。

漢城条約では今回の出来事で被害を受けた日本人への補償金、日本公使館再建のための費用を朝鮮国が負担することが定められています。

天津条約では日本と清国両国の軍隊は朝鮮から撤収し、今後朝鮮国内に清国や日本が出兵する場合は、日本と清国はお互いに対し通知を行い、目的を果たした後はすぐに撤兵し軍を駐留させないという約束を交わしました。西暦1885年(明治18年)の4月になります。

天津条約では日本側の代表である伊藤博文さんと清国側の代表、李鴻章(りこうしょう)さんで交渉が行われました。甲申事変以前朝鮮には清国の軍が駐留していましたが、この条約によって清国の軍は朝鮮から撤収することになります。清国の軍は撤収したことになっていますが、清国は引き続き朝鮮国を従属下に置き続けようとして清国の高官に朝鮮への内政干渉をさせることになります。

 

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前回の壬午軍乱の記事に続いて、今回も壬午軍乱後の朝鮮国内の政治の重要な動きである甲申政変について取りあげてみました。日本がこの政変にどのように関わっていたかを知っておくことは非常に重要な気がしました。この時に日本側が何をしたのか事実関係を知っておかないと、まずかった点や致し方ない点が見えてこないように思うからです。日本側は親日的な勢力が朝鮮の実権を握ることを望み、独立党勢力が朝鮮の政権を非合法な方法によって奪取することを支援していたようです。日本国の正式な考えはわかりませんが、少なくとも朝鮮国内の日本の出先機関、日本公使館の職員の対応はクーデター支援の方向だったようですね。

このような日本公使館職員の振る舞いは決して世の中に対し公明正大に弁明できる話ではないでしょう。親日派が政権をとるのは日本にとって好都合ですが、その政権を取る方法が非合法なやり方であれば、失敗した際にクーデターに日本が協力したことが明らかとなって日本の立場が非常にまずいこととなるかもしれません。おまけに朝鮮の中心地、漢城での清国と日本の兵員の数は圧倒的に清国側が上回っていました。清国が本気で鎮圧にあたれば独立党勢力がかなうはずはなかったのです。このような軍事情勢で動いた独立党側の見通しは甘かったと言われても仕方ないでしょうね。

甲申政変後、朝鮮に残った独立党に関わる人たちは権力を取り戻した事大党勢力によって処刑されていきました。独立党の人たちの親族も処刑されてしまったようです。国柄によってこのような出来事への対応の仕方はさまざまなのかもしれませんが、法律に反する方法で政治に関わった場合には、本人だけでなく周囲の人たちにもとんでもない迷惑がかかってしまう危険性があるという点は普遍性があるような気もします。よくよくわきまえなければならないことなのではないでしょうか。

また甲申政変での混乱で朝鮮国に滞在していた多くの日本人の方々が被害に遭いました。対日感情が悪化していると思われる地域に日本人が滞在するというのは、実は大変危険なことなのだなと強く感じます。歴史の教訓としてよく憶えておきたいと思いました。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

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