福沢諭吉が主張した「脱亜論」とは?主張した理由についても

「脱亜論」とは

 

「脱亜論(だつあろん)」は西暦1885年(明治18年)署名なしで新聞「時事新報(じじしんぽう)」に掲載された、日本の外交姿勢に関する主張を述べている文章です。その後福沢諭吉(ゆきち)さん本人による意見であることが判明しています。

脱亜論の中で、清国や朝鮮国が近代化を達成してアジアの隣国として共に発展していくことを辛抱強く日本が待っている時間は無い。日本は隣人として朝鮮国や清国を特別待遇しようとするのではなく、欧米諸国がやっているのと同様の方法で清国や朝鮮国と関係を構築していくのがよい。日本が近代化を果たさないままの清国や朝鮮国と連携を強めることは欧米諸国に日本国そのものをも誤解させてしまうことにもつながりかねない。清国や朝鮮国の近代化を進めようとしない勢力とは交流をするつもりはないと私自身内心では思っている、といったことを意図していると思われる主張をしています。時事新報は福沢さんが主宰していた新聞だそうです。

 

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福沢諭吉さんについて

 

日本有数の私立教育機関、慶応義塾を創設した人として大変有名な方ですし、現在の一万円札の肖像としてももちろん有名な方です。

福沢さんは現在の大分県の位置に存在していた中津藩(なかつはん)という領地のお侍さんの家庭で生まれた方です。生まれた場所は大坂だそうです。福沢さんは大坂の緒方洪庵さんという蘭学の先生が開いていた塾、適塾(てきじゅく)でオランダの学問(蘭学)を学ぶ機会を得ます。そこで才能を認められ中津藩の指示により江戸で塾を開くこととなりました。その後この江戸で開いた塾は慶応義塾に発展することとなります。幕府からも学問での才能を認められ日本使節団が渡米、渡欧する時に福沢さんも随行したそうです。

幕府が明治維新で倒された後、新政府から政府の役人として働くよう福沢さんに声がかかっていたようですが、福沢さんはその誘いを断っています。その後は教育、言論活動に注力しました。

福沢さんは明治維新後の東アジア情勢について当初は朝鮮国が西洋諸国の侵略から自らを守るためには、朝鮮国自らが近代化をしなければならない、朝鮮国の近代化のためには朝鮮国を属国とし朝鮮国の近代化を阻害している清国の影響力を朝鮮国から排除しなければならない、そのため日本は清国と戦わなければならない、という考えを持っていたそうです。

 

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福沢さんが「脱亜論」を主張した理由

 

脱亜論を掲載する以前から福沢さんは朝鮮国を近代化させようという考えを持った朝鮮の人たちと交流していました。甲申政変の中心人物の一人である金玉均(きんぎょくきん)さんともお知り合いでした。朝鮮国を近代化する必要があると考えていた金さんらは福沢さんに日本の人材を朝鮮国に派遣してもらえないかと要請もしていたそうです。

実際福沢さんは朝鮮国内で新聞を発行するべきだと考え、関係者を朝鮮へ派遣するなどの支援をしました。しかし新聞発行出来たものの清国に関する紙上に掲載された意見が理由で清国から圧力がかかり休刊扱いにせざるを得なくなりました。また、甲申政変の時には新聞社が焼き討ちされてしまい廃刊となっています。

また甲申政変の後、政変の中心人物であった金玉均さんたちの親族の方々までもが当時の朝鮮の政治権力を握っていた勢力と清国の意向で非常に残酷な方法で処刑されてしまいました。このことについて、福沢さんは大変憤っていたそうです。

福沢さん自身も朝鮮国の近代化に関係しており期待もしていました。しかしこのように清国や清国の影響下で朝鮮の権力を握る勢力が朝鮮国の近代化を進めようとする勢力を粛清し、近代化の邪魔をし続けることに辟易としていたようです。このような朝鮮国の近代化を阻害する勢力に対する怒りから脱亜論を主張したと思われます。

 

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朝鮮国内の動きに関する記事を前回まで2回にわたって作ってみましたが、甲申政変の顛末と強いかかわりがあるように感じたため、話が多少ずれてはしまいますが、今回は福沢諭吉さんの脱亜論について取りあげてみました。脱亜論を調べていて、福沢さんが朝鮮国内の事大党勢力に対し強い嫌悪感を持っていたように思いました。事大党というのは清国の従属下にあった朝鮮国をそのまま現状維持しようとしていた、当時清国との関係が強かった朝鮮国内の勢力です。

私個人の考えですが、甲申政変というクーデター行為について肯定する気にはなれません。そして朝鮮国を真の独立国とするために清国の影響力を朝鮮から排除しなければならない、その為に日本は清と戦争するべきという福沢さんの考えにも賛成の立場を取るつもりはありません。

しかしクーデターを起こした勢力に対する責任の取らせ方としてクーデター首謀者の近親者をも処刑してしまうというのは福沢さんも憤っていたようですが、確かにひどすぎる話のように思います。(当時の清や朝鮮ではそれが当たり前の対応だったのかどうかはわかりません。当たり前だったとしてもひどいものはひどいですし)

朝鮮国が欧米列強に侵略されないよう、朝鮮近代化のために福沢さんも熱心に関わったいきさつもあったため、尚更甲申政変後の朝鮮の状況に対する失望はとても大きかったのでしょう。

西洋諸国が清国にしたように武力を背景に無理なことを要求するというやりかたについて肯定する気にはなれませんので、福沢さんが脱亜論の中で言っていた西洋人が清国や朝鮮国に接するように日本も対応したらいいという点については賛成できない部分があるなと思います。

ただ清国と朝鮮が一緒になって日本に攻めてくるような状況も当然嫌に決まっています。日本が朝鮮半島に関与しない方針を執っていたらそんなことになっていたか、よくわかりませんが。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

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