ハーグ密使事件とは?事件後締結した第三次日韓協約の内容についても

ハーグ密使事件とは

 

ハーグ密使事件(はーぐみっしじけん)は西暦1907年(明治40年)に発生した出来事です。ハーグというのはオランダの地名であり、その場所で万国平和会議(ばんこくへいわかいぎ)という国際会議が事件当時開催(1907年6月に開会されました)されていました。1907年のこの万国平和会議は2回目だったのだそうです。アメリカの国務長官(日本の外務大臣のような立場になります)が会議参加を呼びかけて開催されたそうです。

この国際会議に大韓帝国の皇帝、高宗(こうそう)さんが使節を派遣し、日本が外交など主権に関わる権限を大韓帝国から奪っている現状と大韓帝国の皇帝はそのようなことを認めてはいないと訴え、国際会議参加国に対し大韓帝国の主権を保護して欲しいと求めました。

しかし国際会議参加国は大韓帝国からの使節を会議に参加させることを認めず、施設側の訴えを取りあげませんでした。そのため使節関係者は会議が行われたハーグでビラをまいたり、講演を実施し大韓帝国の状況を訴えたそうです。

以上のように、この国際会議で想定されていなかった大韓帝国の働きかけがハーグ密使事件と呼ばれています。この出来事を重く見た日本は第二次日韓協約の内容に反し日本の外務省の知らない所で国際会議に使節を派遣した皇帝、高宗さんを追及しました。結果7月18日に高宗さんは退位、つまり大韓帝国の皇帝の座から降りることになります。皇太子の純宗(じゅんそう)さんが新たな皇帝となりました。

 

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第三次日韓協約とは

 

ハーグ万国平和会議での大韓帝国使節の動きによって皇帝の高宗さんが退位しましたが、そのほかにも日本は新たな条約を大韓帝国との間で結ぶこととなります。それが第三次日韓協約(だいさんじにっかんきょうやく)です。この条約は大韓帝国の使節の動きが明るみになってから間もなく結ばれています。1907年の7月24日に締結されました。

この条約を結ぶにあたり日本側の全権となったのは伊藤博文さんです。第二次日韓協約により日本は日本政府の代表者として大韓帝国の外交を管理する「統監(とうかん)」という役職を作りましたが、伊藤さんはこの時初代の統監でした。大韓帝国側の全権は役人や政治家としての経歴を持っていた李完用(りかんよう)という人でした。後に(大正時代)朝鮮貴族として日本から侯爵の爵位を与えられています。

 

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第三次日韓協約の内容は

 

第一次日韓協約(1904年)では大韓帝国が日本の意向を代弁する財政顧問や外交顧問を採用し意見に沿った政治を行う内容が約束され、第二次日韓協約(1905年)では大韓帝国に関する外交は日本国の外務省が取り仕切ることが約束されました。

第三次日韓協約では大韓帝国の国内政治に関する権限について日本と大韓帝国との間で約束が交わされることとなりました。

具体的には第一条に「施政改善に関し」、と漠然とした表現で書かれていますが、政治を改める場合日本国統監の指導を受けなければならなくなりました。

また第二条にありますが、新たな法律を定めたり、重要な行政上の判断を行う場合、あらかじめ日本国統監の許可を受けなければならなくなりました。

また第四条にありますが、大韓帝国政府の高級官吏、お役人さんの任命、免職に関して日本国統監の同意が必要となってしまいました。

また第五条にありますが、大韓帝国は日本国統監が推薦する日本人を大韓帝国の役人に任命しなければならなくなりました。

また第六条にありますが、大韓帝国は日本国統監の同意なしに他国の人材を雇うことが出来なくなりました。

このように大韓帝国の国内政治に関する様々な権限についても日本国の代弁者、日本国統監の指導、承認、同意が必要となってしまいました。

 

またこの条約を結んだ時に非公式に大韓帝国軍隊の解散や警察権限、司法権限が日本側に委ねられることになったそうです。軍、警察も大韓帝国側が自由に動かせなくなったということです。

 

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今回はハーグ密使事件や第三次日韓協約について取りあげてみました。ハーグ密使事件は日本がさらに強硬な対応をするきっかけになった出来事として、第三次日韓協約は大韓帝国の権限を更に奪うこととなった条約として共に重要な項目かと思います。

それまでの第一次、第二次日韓協約に続き、大韓帝国の権限を日本側が奪っていく過程を見る結果となりました。法律を作る場合も役人を任免する場合も外国人を雇う場合も日本側が許可しなければ実行できないというのですから、日本国の同意なしには何も重要なことは出来ないようなものですよね。おまけに日本人を大韓帝国の役人にするような話も盛り込まれていますし、大韓帝国の当時の状況を憂いていた国民はこの内容を知ったら本当に落胆したでしょうね。もし日本国がどこかの強国によってこのような権限を奪われたら、と考えると本当に恐ろしい思いがします。

皇帝の高宗さんや高宗さんの周辺の人たちは他の列強国に保護してもらうことを期待して国際会議に使節を送ったようですが、その結果は高宗さんたちが望むものとは全く逆の結果を招きました。実は第一次日韓協約が結ばれた後高宗さんはロシア、フランス、アメリカ、イギリスという世界の強国に使節を送り日本の行動をけん制しようとしましたが、列強国から期待した反応は得られず、全く良いことはありませんでした。この出来事を経験していたにもかかわらず、なぜ国際会議に使節を送ってしまったのでしょう。止めようとする側近がいなかったんでしょうかね。

(日本がこの時おこなった行為が道義的に見て正しいとは感じられないことを前提にしてではありますが)当事者にとっては一生懸命な行動なのでしょうが、抵抗を行うことによってますます状況が悪くなってしまうということはあるものなのだなと思いました。臨機応変に対応しなければならず、本当に難しいものです。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

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