織田信長さんと足利義昭さんが対立したのはなぜなのでしょう

織田信長さんと足利義昭さんが対立した理由

 

室町幕府の第15代将軍、足利義昭(あしかがよしあき)さんは第13代将軍足利義輝(よしてる)さんの弟にあたるかたで本来将軍になる予定の方ではなく僧侶として生活されていたこともあった人です。しかし国内が混乱し室町幕府の権威が低下し京周辺の武装勢力に義輝さんが殺害されてしまいました。将軍候補となる血筋の人物である義昭さんも命を狙われたため京から逃亡し他の地域の戦国大名のもとでかくまってもらいます。一時は北陸の朝倉家にお世話になりましたが、朝倉家は京都に進軍し室町幕府の再建に尽力する姿勢に乏しいと義昭さんには映ったようです。義昭さんはそのような点で朝倉家よりも見込みがあると判断した織田家に協力を求めます。織田家の当主信長さんは義昭さんの要請に応じ京に進軍、上洛(じょうらく)しました。当時京周辺を仕切っていた勢力(三好家という戦国大名に関連する勢力で三好三人衆みよしさんにんしゅうなどと呼ばれていました)を京周辺から追い出すことに成功し、14代将軍が病死したことなどもあって義昭さんは室町幕府の15代将軍に就任します。義昭さんが上洛することが出来たのは信長さんの武力があったからこそ出来たことであって、義昭さんは信長さんの貢献に非常に感謝しました。義昭さんと信長さん。この二者の関係は当初非常に良かったわけですがその後関係が悪化。戦をしてしまうくらい仲が悪くなります。良好だった関係が何を理由に悪化してしまったのでしょう。義昭さんが将軍職に就任して以降、義昭さんの振る舞い、政治手法に対する信長さんからの干渉が次第に強まり、義昭さんの容認できる限度を超えてしまったことで修復が困難なほど関係が悪くなってしまったようです。

 

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将軍就任の翌年

 

義昭さんが上洛し将軍に就任したのは永禄11年、西暦1568年でした。9月ころだったそうです。そしてその翌年の1月に16項目、その次の年の永禄13年、西暦1570年の1月に5項目追加していますが信長さんは義昭さんの政治行動の自由を様々に拘束する規則を作り、それを守るよう義昭さんに要求しました。殿中御掟(でんちゅうおんおきて)などと呼ばれるものだそうです。将軍である義昭さんの周辺で仕える人々に関するもっともな内容の項目もあるのですが、義昭さんの家来の人たちが義昭さんの住まいに出入りする場合は信長さんの許可を必要とすることとか、信長さんの意向を経ずに幕府や朝廷に裁判の訴えをしてはならない、義昭さんが国内の大名に書状を出す時は信長さんの確認が必要、政治を任されている立場なので信長さんが義昭さんの意向に左右されず独断で物事を決めていいことにするといった義昭さんの権限を弱める内容も含まれていました。

 

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将軍就任四年後

 

元亀3年、西暦1572年に信長さんは17項目に渡る義昭さんを批判した内容が書かれた文書を義昭さんに提出しました。17条の意見書などと言われているそうです。この中で朝廷との関係をもっと密にすべきとか、元号を変える仕事をちゃんとやるようにとか、家臣への報奨がきちんと出来ていないとか、罪を犯した者に対する処罰が適切に行われていない、幕府のお金が適切に使われていない等々、の批判がおこなわれています。このような批判、諌め(いさめ)を義昭さんと信長さんとの二者の間でひそかにおこなうのなら義昭さんの体面を汚すこともないかもしれませんが、信長さんはこの意見書をたくさん書き写して、それを各方面に拡散したそうです。義昭さんの失態を言い広めたことになりますので義昭さんの権威を低下させることにつながってしまいました。この出来事は義昭さんの態度を硬化させ信長さんとの関係が決定的に悪くなってしまったようです。義昭さんは信長さんを倒すために軍事行動を起こしてしまいました。結果的には義昭さんは信長さんとの戦に敗れます。

 

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今回は信長さんと将軍足利義昭さんが対立することになった理由について一部取りあげました。結局のところ国内の権力をわがものにしたいというわかりやすい理由で信長さんが義昭さんを追い詰めたということなのかもしれませんが、具体的に何を理由にして関係が悪くなっていったのかについてはあまりよく知らなかったこともありこのようなテーマの記事を作ってみようと思った次第です。将軍就任から半年たたないうちに信長さんの許可なく義昭さんと義昭さんの家臣が接触することが出来ないというような規則を定めるというのは、将軍の立場からすれば当然納得のいかないものなのでしょう。信長さんのおかげで将軍になれたわけですから義昭さんもそれなりに我慢はしたのでしょうけれど。義昭さんの過失ととれる内容を書き連ねていろいろな要人の目に触れるようばら撒くというのはわざと義昭さんを怒らせようとしているようにやはり感じてしまいます。義昭さんに先に手を出させて信長さんが義昭さんと戦う口実を作るためにそのような意見書を信長さんは提出したという見方があるようです。もしそのような見方が正しいのであれば義昭さんは信長さんの挑発に乗ってしまったということになりますね。自前の武装勢力を持たずに権力を握った場合、強力な軍事力を持った存在に結局軽く扱われてしまうものなのでしょうか。有力大名の力を借りて将軍の座を得ようという義昭さんの見通しがそもそも甘かったということなのかもしれません。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

本能寺の変の当事者と義昭さんの関係についての話「明智光秀さんと足利義昭さんはどんな関係だったのでしょう」はこちらです。

権力の移り変わり(裏切り?)について触れている話「信長さんの嫡孫を秀吉さんはどのように待遇したのでしょう」はこちらです。

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