1941年締結の日ソ中立条約とは?締結した理由についても

日ソ中立条約とは

 

日ソ中立条約(にっそちゅうりつじょうやく)とは西暦1941年(昭和16年)の4月に日本とソビエト連邦との間で結ばれた条約です。この条約はソビエト連邦の首都モスクワで調印されました。調印した日本側の人物は当時の政権(第二次近衛内閣)の外務大臣だった松岡洋右(まつおかようすけ)さんと当時ソビエト連邦に駐在していた日本大使で陸軍軍人(予備役の陸軍中将)の建川美次(たてかわよしつぐ)さんでした。ソ連側で調印したのはソ連外務人民委員のバチェスラフ・ミハイロビッチ・モロトフという人です。外務人民委員というのは日本の外務大臣にあたる立場のようです。この日ソ中立条約は四カ条から出来ており、第一条で日ソ両国が平和で友好的な関係を維持することやお互いの領土の安全を保ち、侵略しないことを定め、第二条ではこの条約を結んだ一方の国が条約締結相手とは別の国と戦闘状態となった場合、条約を結んだもう一方の国はその戦闘が終了するまでその戦闘に関し中立の立場を維持することが定められています。第三条ではこの条約が五年間有効とし、期限が切れる一年前にこの条約を廃棄すると相手側に通告しなければ五年間有効期間が自動的に延長されることも定められています。第四条ではこの条約の批准(条約に調印した国が最終的に条約に同意すると決めることを批准と言います)を速やかに行うことが定められています。それ以前は1925年に日ソ基本条約を結んで日ソ間の国交があったものの、1938年の張鼓峰事件や1939年のノモンハン事件などで武力衝突していた日本とソ連両国が、この条約を結んだことでしばらくの間お互いの国同士で戦闘をおこなわないで済むことと建前上はなりました。

 

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日ソ中立条約を締結した理由

 

この条約を締結することにした理由ですが、この二カ国で理由は異なります。日本は当時中華民国の蒋介石が率いる重慶国民政府との戦闘を続けていました。この中華民国との戦闘を日本に有利な形で出来るだけ早く終わらせたかった日本ですが、なかなか国民政府側も抵抗をあきらめようとしません。国民政府との戦闘を続けているうちに日本は英国や米国の中華民国内の権益を侵害して特に米国との関係が悪化します。米国は国民政府への支援を強め、反対に日本には様々な戦略物資を輸出しないようになってしまいます。日本は戦闘を続けていかなければならないのに、必要な物資が欠如してしまってはそれも困難になってしまいます。アメリカからの輸出に頼らず戦闘に必要な物資を確保するため、東南アジア地域に存在する資源を日本が利用できるようにしようと日本政府は考えるようになりました。その為には場合によって東南アジアを植民地にしている国々と戦わなければなりません。中華民国でも戦闘、東南アジアでも戦闘、おまけに満州国とソ連の国境付近でソ連とも戦闘となってしまっては日本が持つ戦力を複数に分散しなければならず非常に不利になってしまいます。そのため日本は戦わなければならない敵を減らす必要がありました。そのような理由でソ連と中立条約を結びソ連と戦うことを想定しなくてもいいようにしたわけです。

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また日本は当時ドイツやイタリアと軍事同盟を結んでいましたが、それにソ連も加え四カ国の連携を強めることでアメリカが日本に対して強硬な態度をとることが出来ないようにさせようという狙いも元々はあったようです。アメリカが日本に武力行使することを想定したとしても、ドイツ、イタリア、ソ連が同時にアメリカの敵となるなら日本が孤立してアメリカと対峙する場合よりもアメリカにとってはやりにくいだろうと考えたわけです。ただドイツとソ連の関係が悪化したため、そのような四カ国の連携は実現しませんでした。一方ソ連にとっての事情ですが、ソ連は当時ドイツとの関係が悪化していました。独ソ不可侵条約を結んではいましたがドイツとの戦争になってしまった場合もし日本との間で平和を維持する条約を結んでいなければ極東でもソ連は戦争しなければなりません。欧州でも極東でも戦争をするというのは欧州だけで戦争するより当然大変です。戦力を欧州に集中したいソ連にとって日本と戦わなくて済む条約を結ぶことは当時非常に都合のいい話だったわけです。

 

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今回は日ソ中立条約について取りあげてみました。東南アジアを攻略するための動きですし、この条約が成立したことで南進論(東南アジアを攻略するという方針)へさらに傾いていくことになるのでしょうから重要な出来事なのだと思います。もともと南進して戦略物資を確保する必要が出てきたのはアメリカからの輸出が規制されてしまったからですよね。アメリカとの関係が良好であれば南進する必要も無く、日本国の体制上最も警戒しなければならない筈の本来仮想敵国であったソ連と中立条約を結ぶ必要も無かったのでしょう。そもそもドイツやイタリアと連携を強めたきっかけは共産主義勢力から自国を守るという防共協定の締結でした。その元凶とも言うべきソ連と中立条約を結ぶというのですから大変な方針転換です。そのソ連は中立条約が有効期限内にある1945年に日本に対し宣戦布告します。結局日本にとってはあまり役に立たない条約だったということのようですね。かつて最も警戒しなければならない相手としてソ連を想定していたのは正しかったということでしょうか。中華民国国民政府との戦闘が日本をここまで難しい状況に追い込むことになるというのは本当に驚きです。早い段階で日本が国民政府との停戦協定を結ぶことは無理だったんでしょうかね。第一次近衛内閣があまり協調したがらなかったであろうアメリカやイギリスに対し(日本にとっては不本意ではあっても)仲介をお願いしていたら国民政府との協議も進んだのでしょうか。非現実的な話ですかね。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

その後のソ連の振る舞いについて触れている話「ソ連が連合国側として参戦した理由は何だったのでしょう」はこちらです。

日ソ間の武力衝突に関する話「張鼓峰事件とは?発生した場所や昭和天皇の反応についても」はこちらです。

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