野村大使とハル長官による1941年4月の日米交渉について

米国関係者の接触

 

アメリカの宗教関係者であるドラウト神父が西暦1940年の11月に来日し日本の要人との面会を繰り返して日米関係改善のための手がかりをさぐりました。この年の9月にはフランスの領土であったインドシナ半島の一部地域に日本軍が駐留することとなったり(北部仏印進駐)、日本がドイツやイタリアと軍事同盟を結んだり(日独伊三国同盟)といったことを立て続けに日本がおこなっていました。アメリカがそれを批判し屑鉄輸出禁止などの対応をとって日米関係が非常に悪化していた時期です。ドラウトさんが接触した日本人の中に井川忠雄(いかわただお)さんという元大蔵省(現在の財務省にあたる官庁です)の官僚だった方がおり、この井川さんも日米交渉によって両国の関係改善につながるよう協力することとなりました。1941年の2月から外務省の職員となり井川さんはアメリカで活動することになります。また3月には陸軍の軍人で岩畔豪雄(いわくろひでお)さんというかたが陸軍の命令で駐米日本大使の特別補佐官という立場に就くためアメリカに渡りました。その頃の駐米日本大使は野村吉三郎(のむらきちさぶろう)さんという海軍出身のかたが担当していました。ドラウトさんが訪日したのと同じ月1940年11月に大使に任命されています(ワシントンに赴任したのは1941年2月でした)。

 

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日米了解案

 

両国の政府役人による交渉ということではないものの、実際の日米交渉がおこなわれる場合の下地となるような大体の日米間の主張の落としどころを早急に作成する必要があると判断し、ドラウトさんや井川さん、岩畔さんは短期間で日米了解案と呼ばれるものを完成させました。ドラウトさんには当時の政府高官とのパイプがあったため、このような水面下での協議をすることが出来たようです。岩畔さんは日本陸軍の中央にいた人なので陸軍中枢の望んでいることに詳しく、このような協議に適したかたでした。この日米了解案の中には米国が満州国を承認すると受け取れるような内容も含まれていました。

 

野村・ハル会談

 

それ以前にも野村大使と当時アメリカ国務長官だったコーデル・ハルさんは会談の機会がありましたが、井川さん、岩畔さん、トラウドさんらが懸命に作成した日米了解案が会談で取りあげられたのは4月16日だったそうです(それ以前の2月、3月の会談で何か大きな進展があったというわけではありませんでした)。国務長官からは野村大使へアメリカ側の立場を示す四原則が提示され、日米了解案に関する日本政府としての正式な意見を求められました。アメリカ側が提示した四原則というのは全ての国家の領土の保全と主権を尊重すること、国家の内政に干渉しないこと、機会均等(特定の国で商工業をおこなう機会を均等に得ることが出来るという意味です)、太平洋地域の現在の状態を変更しないこと、という内容でした。

 

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日本政府の反応

 

国務長官が確認したがっていたわけですし、野村大使が日米了解案の内容を日本政府に報告し日本政府側の日米了解案に関する考えを示すよう要請します。日米了解案の内容を聞き近衛首相や陸軍、海軍は中華民国からの日本軍の撤退という内容があったものの、満州国を米国が承認するという内容や以前のような特定物資の輸出入を禁止しない日米間貿易の通常状態への回復といった内容は非常に好ましいと受け止められ、この日米了解案を基礎にして日米交渉をおこないたいと考えたようです。しかし外務大臣の松岡洋右さんはこの日米了解案に強く反発し、この外務大臣一人の反発によって日本側の考えを大きく変更しなければならなくなりました。当時の内閣制度では一人の大臣が他の大臣と意見が異なる場合内閣が成立しなくなり内閣が退陣しなければならなかったため松岡外務大臣が日米了解案に納得しないということであれば他の大臣たちが日米了解案に賛成であったとしても日本政府の総意として日米了解案に賛成と意思表示することは出来ませんでした。日米了解案の内容を松岡外相が納得するものに変更せざるを得なくなり、他の大臣がそれを受け入れ、松岡外相の意見も反映した案が米国に提示されることとなりました。一時は日米間の合意が成立しそうにも見えたのですが当初の日米了解案が変更され日米交渉は目立った進展が無く経過していきました。

 

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今回は日米了解案を含む1941年4月頃の日米交渉に関する記事を作ってみました。米国に対し強硬な態度をとる日本陸軍が日米了解案に乗り気だったことを考えますと、松岡外相以外は賛成する内容の日米了解案を即座に日本政府が賛成だと表明していたらその後の日米関係は現実とは異なるものとなっていたのかもしれないという気がしたのでこの時期の出来事をぜひ取りあげてみたいと思いました。今の時代であれば総理大臣が外務大臣を交代させて迅速に米国にそのままの日米了解案に賛成だよと伝えることも出来たのかもしれませんが、大日本帝国憲法下の日本ではそういうわけにはいかなかったようです。ただ松岡外務大臣を外務大臣の立場から退かせるためにその後第二次近衛内閣は退陣することになるわけなので、時間がかかるかもしれませんが大臣を変更させる方法が無かったというわけではなかったんですよね。日米了解案が日本政府に報告された4月の時点で迅速に松岡外相を辞めさせるために第二次近衛内閣が退陣し第三次近衛内閣を発足させていればよかったということでしょうか。とにかくせっかくの話がうまくいかなくなってしまったように個人的には見えて、もどかしい気持ちになりました。松岡外務大臣は米国の外交姿勢は信用できないから当初の日米了解案のような日本にとってありがたい内容が盛り込まれていてもいつ破棄されるかわかったものでなはい、と考えて日米了解案に反対したそうです。松岡さんはあまり米国に対し良い印象を持っていなかったようですね。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

アメリカ側の対日要求について触れている話「ハルノートの内容を自分なりに簡単に説明してみました。」はこちらです。

第1次近衛内閣の方針と米国の政策が衝突する話「東亜新秩序とは?秩序建設を説く近衛首相の声明についても」はこちらです。

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