島津家と秀吉さんとの戦いはどのように経過したのでしょう

島津家と秀吉さんの戦いの経過

 

豊臣秀吉さんが天下統一を果たすのは天正18年、西暦1590年の話です。他の記事で触れていますが関東の有力勢力、北条家を倒し東北地方の勢力も秀吉さんに従う姿勢を示したことによって全国を支配下に置くことが出来ました。九州地方を支配下におさめたのは天正15年、西暦1587年であり、天下統一の3年前になります。当時の九州では南九州を基盤としていた島津家が勢力を拡大していて、九州の北東部に拠点を持つ勢力、大友家と対立していました。支配下に置いている領域は島津家側がはるかに広大で、押されている大友家側は秀吉さんに支援を求めました。秀吉さんは島津と大友間の争いを中止するよう双方に指示しますが島津側は秀吉さんの指示に従う様子が無く、それを理由に秀吉さんの勢力と島津家が対立し戦になっていきます。最初は秀吉さんの配下にある武将の方々だけ九州に乗り込み島津勢と戦います。豊後(ぶんご)、現在の大分県あたりの地域ですが、そこで天正14年、西暦1586年の暮れに両軍が衝突しこの戦で島津軍が勝利します。秀吉さんに対し島津側が従わない姿勢を明らかにしたことをきっかけに、今度は秀吉さん自身が大軍を率いて九州に乗り込みます。天正15年3月に九州に乗り込みました。その後秀吉さんの軍は九州の東と西の二手に分かれ拠点となる城を支配下に収め、南に向かって進軍しました。戦力差が非常にあることで戦っても惨敗すると判断し島津側は豊臣勢が現在の鹿児島県の北西部、薩摩川内(さつませんだい)にまで到達したところで降伏の姿勢を示します。直接島津家の代表が秀吉さんに面会し降伏しました。これによって秀吉さんと島津家の戦は終了ということになりました。天正15年5月のことです。

 

スポンサーリンク

当初の戦い

 

豊臣勢と島津勢の初期の戦いとして豊後での戸次川(へつぎがわ)の戦いというのが有名なようです。天正14年12月におこなわれています。豊臣側は中国地方や四国地方の有力大名が参加し島津勢と戦っていますが、この戦でかなりの犠牲を出し島津勢に敗れてしまっています。四国の大名、長宗我部家の当主の息子さんがこの戦で亡くなられました。本来の兵員の数では豊臣勢がまさっていたようではありますが、戦となった時点での豊臣勢の機能する兵が島津側に比べ少なかった(豊臣側6000くらい、島津側10000くらい)という話もあるようです。いずれにしてもこの九州の北東部での戦いで島津勢が勝利し、島津家は自信を深め本州の秀吉さんの言うことに従う様子を示しませんでした。

 

スポンサーリンク

秀吉さんが直接乗り込みどんどん進軍

 

島津側が秀吉さんの言うことに耳を貸す様子が無いと判断し秀吉さん自らが九州に乗り込みます。秀吉さんが率いる軍勢が九州の西側を南下、秀吉さんの弟、秀長(ひでなが)さんが率いる軍勢は九州の東側を南下するということになります。秀吉さんと秀長さんの軍勢を合わせると20万人の規模にはなったそうで進軍の過程で戦をせずに降伏する城も多数出ることになったようです。しかし全く戦無しに秀吉さん秀長さんの両軍勢が九州南部に到達したわけではなく、豊前(ぶぜん)、現在の福岡県東部や大分県北部にあたる地域ですが、その地域にあった岩石城を支配下に置くにあたっては戦となっています。ただ一日で決着は付きました。秀長さんの軍勢が日向(ひゅうが)、現在の宮崎県にあたる地域ですが、その地域まで南下したところで根白坂(ねじろざか)の戦いと呼ばれる戦をしています。天正15年4月の話です。この根白坂での戦では秀長さんの軍勢の規模が島津家側の軍勢を圧倒的に上回っていた状態(秀長さん側は8万とか15万などと言われていて島津側は3万5千ほどだったそうです)でおこなわれていて島津家側は相当な犠牲を出して敗れています。こういった戦闘の結果から、戦っても負けは目に見えているということでその後頑張って抵抗した城もありましたが島津の代表が降伏するから抵抗はやめるようにと家臣に伝え、島津側のおもだった抵抗は無くなります。まもなく薩摩川内(さつませんだい)で島津側の代表者、島津義久さんが秀吉さんに面会し降伏の考えを示しました。こうして秀吉さんは九州を支配下に置くこととなります。

 

スポンサーリンク

今回は秀吉さんの九州平定に関して一部取りあげました。秀吉さんの天下統一までの過程について記事にしたく調べてみましたが九州平定に関して一般的に関心が強かったことや私自身九州の勢力が豊臣側に対してどのような振る舞いをして臣従に至ったのかよく知らなかったこともあったので、このようなテーマで記事を作ってみました。島津側は最初から豊臣側に素直に従っていたわけではなかったんですね。豊臣側の派遣軍を破るような時期もあったわけです。全然豊臣側に従わない島津家が態度を大きく変えることになったのは秀吉さんが率いるとんでもない大軍の規模と、そのような軍勢と実際に戦って島津側が相当な犠牲を出して敗れたという事実でした。初戦では大きな戦力差で戦ったわけではなく豊臣側にもかなり犠牲が出たわけで、こういったことを見てみると味方にあまり犠牲を出さずに戦の決着をつけるためには出来るだけ相手の戦力を大きくしのぐ軍勢で戦いに臨むようにしたほうがいいということなんでしょうかね。あまり戦力差が無ければ相手に「戦ったら活路が開けるかも」と思わせてしまって本来相手に降伏させることが出来た状況でも戦になってしまうかもしれません。戦意を喪失するだけの圧倒的な戦力差というものの威力のすごさを今回の出来事を調べていて感じることとなりました。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

島津家と家康さんの間で起きた事について触れている話「島津家は関ヶ原の戦いの後どうやって領地を保ったのでしょう」はこちらです。

秀吉さんの朝鮮に対する軍事行動について触れている話「文禄の役と慶長の役とではどのような違いがあるのでしょうか」はこちらです。

関連記事

ページ上部へ戻る