豊臣秀吉さんが関白に任じられたのはいつ頃だったのでしょう

秀吉さんはいつ関白になった

 

天正18年、西暦1590年に全国の戦国大名を自分に従属させ天下統一を成し遂げた豊臣秀吉さん。秀吉さんの肩書は将軍というわけではなく関白(かんぱく)とか太政大臣(だじょうだいじん)といったものでしたが、この関白という役職に秀吉さんはいつ就任したのでしょう。秀吉さんが関白という役職に朝廷から任命されたのは天正13年、7月11日でした。朝廷から出された任命のための文書にそのような日付が記されているようです。この天正13年7月11日は、現在世界で使われている西暦にしますと西暦1585年の8月6日にあたるとされています。ということで秀吉さんの関白就任は天正13年7月11日、西暦1585年8月6日ということになります。

 

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その頃秀吉さんはどんな行動をしていたのでしょう

 

天正13年の7月頃、もちろん秀吉さんは天下統一を成し遂げるための行動を続けていました。ちょうど四国の勢力、長宗我部(ちょうそかべ)家の勢力を支配下に置くための戦いをその頃していたようです。四国平定、四国攻めと呼ばれる軍事行動だったそうですが、四国の長宗我部家の領地をどれくらいにするかで秀吉さん側と長宗我部家の交渉がうまくまとまらず戦となったようです。秀吉さんと長宗我部家の戦いは5月から始まり7月の下旬には長宗我部側が降伏の態度を示すことで停戦し8月に戦が終了したようです。

 

秀吉さんはどうやって関白になったのでしょう

 

関白という役職は、それまでそもそも朝廷に仕える公家、貴族の人たちの中でもごく一部の家柄の人たちだけしか就任することが出来なかったのだそうです。五摂家(ごせっけ)などとも言われ、摂政や関白に就任できる家柄は近衛家(このえけ)、九条家(くじょうけ)、二条家(にじょうけ)、一条家(いちじょうけ)、鷹司家(たかつかさけ)の五つの家柄に限定されていたようです。秀吉さんは農民の家で生まれた方ですから当然公家出身のかたではありません。家柄で言えば関白の役職につくことは難しそうなものです。しかし秀吉さんが本州地域で大変強い勢力となったことで朝廷側も秀吉さんの意向を尊重したようです。秀吉さんは近衛家の近衞前久(このえさきひさ)という当時近衛家の当主だった人の養子という立場になり、形式上は近衛家に連なる立場となってそれから関白の役職に任命されました。

 

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関白とは

 

関白という役職は時の天皇を補佐するのが務めとなる役職です。公家の世界で最も高い位置の役職などと見る意見もあるようです。関白はすでに成人となっている天皇を補佐するのであって、幼少な天皇、あるいは天皇が病で政務に支障が出てしまうような場合に補佐する役職は摂政(せっしょう)となります。関白は平安時代から存在する役職で藤原家が大きな権限を得るきっかけとなった役職としても有名です。しかし明治天皇の時代になって新体制に移り変わるにあたり、指導者層の考えによってこの関白という役職は廃止されることになりました。

 

今回は秀吉さんの関白就任について一部取りあげました。どうして秀吉さんは家康さんのように将軍という立場になろうとせず、関白太政大臣といった立場だったのかよくわからず、何か関係した記事を作ってみようと思ったのですが、いつ関白に就任したのかについて一般的に関心があるようだったのでこのようなテーマの記事にしてみました。関白という立場になった場合、武士勢力だけではなく公家の人たちを統制する上でも、この役職は有効だったようで、将軍ではなく関白を志向した理由はそのような所にあるのではないかという見方もあるようです。

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秀吉さんの関白就任については公家の世界で批判もあったようですが結果的には秀吉さんの意向通りになりました。強い武力を保持して国内の相当な領域を支配下に収めている立場となった場合、公家の世界のしきたり、前例などというものは結果的には覆されてしまうもののようです。ただ秀吉さんが亡くなり豊臣家が勢いを失ってからはそれまで通り一部の公家の方々が関白職を務めるという以前の慣習通りになったそうです。そういった意味ではしきたり、慣習というのは根強い側面もあるということになりますね。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

秀吉さんの子息、秀頼さんについて触れている話「大坂夏の陣と冬の陣とではどっちが先だったのでしょう」はこちらです。

家康さんの将軍就任について触れている話「徳川家康さんが将軍を担当した期間はどれくらいなのでしょう」はこちらです。

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