織田信長さんは長篠の戦いでどんな戦法を使ったのでしょう

長篠の戦いで織田信長さんがとった戦法

 

織田信長さんが同盟を結んでいた戦国大名、徳川家康さんは東海地方の一部、三河(みかわ 現在の愛知県の一部にあたる地域)の一部を領地にしていて、甲斐(かい 現在の山梨県にあたる地域)や信濃(しなの 現在の長野県にあたる地域)の一部、駿河(するが 現在の静岡県の一部にあたる地域)、遠江(とおとうみ 現在の静岡県の一部にあたる地域)などを領地としていた有名な戦国大名、武田家と対立していました。徳川と武田のせめぎ合いの中で、天正3年、西暦1575年、当時徳川勢がおさえていた城、長篠(ながしの)城を攻撃するため武田軍が出陣し城の周辺で戦闘となりました。これが長篠の戦いです。城には徳川勢の少数の兵員(500人くらいだったそうです)しか常駐していなかったため城を攻撃してきた1万人以上の兵員を率いる武田軍を相手にしてそのままではかなうわけはなく、徳川勢と織田勢が大軍(合計3万人以上だったようです)を率いて救援に向かいました。結局この戦闘、長篠の戦いは織田・徳川連合軍が武田軍を打ち破ることとなります。戦国大名の中でも強いことで有名だった武田軍を相手に信長さんが率いる織田・徳川連合軍はどのような戦法でこの戦に勝利したのでしょう。織田勢は武田軍に比べ鉄砲をたくさん使用し武田勢の攻勢を退けたと言われています。また武田側の馬に乗った戦闘員が織田側の陣地に近付きづらくなるような柵を設けていたそうです。

 

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鉄砲を積極的に活用

 

鉄砲を扱う兵員を3列に並べ最前列に並んだ兵員が接近する武田勢に対し一斉に鉄砲を撃ち、撃った列の兵員は後ろに下がり次の鉄砲の発射のための準備に入ります。その間に2列目に控えていた兵員は1列目の兵員が鉄砲を発射した後に時間を空けずに攻め寄せてくる武田軍に一斉に鉄砲を発射。発射した2列目の兵員が後ろに下がり次の発射に備えた準備に入ります。発射の準備を整えていた3列目の兵員が2列目の兵員の鉄砲発射後に間をあけずに一斉に武田軍に鉄砲を撃ちます。3列目の発射が終わると発射の準備を終えた最初の1列目だった兵員たちが前に出てきて間をおかずに鉄砲を発射・・・、このように当時の鉄砲の欠点、次に発砲するまでに火薬や弾をこめ発射出来るまでに長い時間がかかってしまうのを3つの隊列に時間差で鉄砲を発射させることで補い、相手が近寄る前に鉄砲で撃退してしまうという戦い方をとったという説明が以前からされています。この戦い方については現在信憑性が無いという指摘が多くなってきているようですけれど、武田軍に比べ大量の鉄砲を用いて当時の戦であればとっくに鉄砲の火薬、鉄砲の弾が尽きておかしくない時点に至っても織田軍がどんどん鉄砲を撃ってくることで、攻撃してくる武田側の犠牲が非常に大きくなったということは言えるようです。この戦にあたって織田側が支配している地域からかき集めた鉄砲の数は1000丁とも3000丁とも言われています。支配している地域の性格上、武田勢がこれに優るような数の鉄砲、弾薬を揃えることは無理な話で、堺などの鉄砲を生産している地域を支配している織田勢が有利でした。

 

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馬防柵(ばぼうさく)と呼ばれる柵が使用されました。丸太をくんで縄で縛りつけ、下の部分を地中に埋め込み容易に動かすことが出来ないようにした柵です。馬に乗った兵員が侵入してくるのを防ぐために設置する柵だそうで、これは信長さんが発明したということではありません。鎌倉時代にはそのような柵が既に戦で使われていたという指摘もあるようです。信長さんがこの馬防柵をたくさん設置して武田軍が陣地に侵入してくるのを防いだという点で注目されているようです。鉄砲や馬防柵によって武田側の馬に乗った兵員は思うように戦うことが出来ず、織田勢の陣地に近付くことが困難となり犠牲を増やしていくこととなります。

 

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今回は長篠の戦いについて一部取りあげました。信長さんの活動の中で武田勢との戦いであるこの長篠の戦いは歴史の授業でも取り扱われる大変有名な出来事であり、私も名前を聞いていましたがこの戦いでの織田側の戦法について最近では過去に言われていたような、3列に並ばせてどんどん発砲したという話が本当ではなかったなどという見方が強まってきていると知り、この戦闘で織田側が勝てた理由について確認したく今回のような記事にしてみました。3列で発砲はしなかったかもしれませんが当時の常識では考えにくいくらいたくさんの鉄砲、弾薬を用いて戦ったということは言えるようなので、鉄砲が勝敗の鍵を握ったということにはなりそうです。この戦、武田勝頼さん率いる武田軍は重臣の方々が勝頼さんに偵察の結果、当時の形勢は分が悪いのでひとまず撤退することを進言していたなどと言う話も残っているようです。その進言を勝頼さんが聞き入れず戦を強行し武田軍は大きな打撃を受けてしまいました。この戦では武田軍の大変有能な家臣の方々が大勢亡くなられたそうです。長篠の戦いは新しい戦い方がおこなわれたいくさというだけではなく、敗れた側の経験豊富で有能な家臣の忠告が的を得ていたという事例でもあるんですね。家臣の忠告がいつも正しいとは限りませんから指導者、リーダーの判断が問われる所ではあります。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

信長さんが安土に城を築いた理由について触れている話「信長さんが安土城を築いた理由は何だったのでしょう」はこちらです。

信長さんのとった有名な政策について触れている話「信長さんが楽市楽座を実施した目的は何だったのでしょう」はこちらです。

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