ペリー来航の目的と来航した場所、乗っていた船の名前について
来航した場所
一度目の来航の時(1853年)には最初久里浜にやってきましたが砂浜で近づけず浦賀に移動しました。二度目の来航の時(1854年)には浦賀よりも東京湾(江戸湾)に入ったあたりの小柴沖にやってきています。
ペリーさんが乗っていた船の名前
一度目の来航時には黒船4隻でやってきていますが、ペリーさんは旗艦のサスケハナ号に乗っていました。二度目の来航時も最初に乗っていた船はサスケハナ号だったそうですが、その後旗艦がポーハタン号に交代しており交代後はポーハタン号に乗っていたようです。サスケハナはアメリカの川の名前、ポーハタンはアメリカ原住民の部族の名称だそうです。
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来航の目的
アメリカ合衆国大統領が記した将軍宛の国書の内容を見ると友好関係を結ぶこと、日本と交易するために日本に開国を求める事、もしアメリカ人が意図せず日本に漂着した場合には人道的な対応を望む事、漂着でない場合でもアメリカの船が物資(燃料、水、食料など)を補給するために日本のいくつかの港に入る許可を日本から得る事、この四点が主要な目的だったと思われます。
他には測量を行い海図の情報を充実させること、日本周辺地域の動植物の標本を手に入れることなどといった目的もあったそうです。
ビッドルさんの来航
ペリー提督が来航したことは非常に有名で私も知っていましたがそれ以前にも同様の目的で既にビッドルさんという艦隊司令官が日本を訪れています。1846年の事でした。
軍艦二隻で浦賀にやってきて日本に交易などを求めましたが幕府はアメリカの要求を断ったため、そのまま引き返したそうです。あやうくビッドルさんがひどい誤解によって警備をしていた日本人から襲われそうになったようですが、大事にはいたらなかったそうです。アメリカ人に怪我を負わせたりしたら大問題になっていたでしょうね。
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国書に記されていたこと
以下は私なりの表現で国書の大まかな内容を列挙したものです。
・アメリカは日本と友好関係を結び日本と貿易をしたい。
・米国が派遣した艦隊には日本の平和を乱さないよう命令している。
・アメリカの蒸気船は18日でアメリカから日本に到着することが出来るようになった。
・両国で様々な物産が生産、産出されているしお互いの利益の為にも貿易したい。
・日本はオランダや清とだけ交流していることを承知しているが時代は大きく変わった。
・鎖国を完全に廃止するのが心配なら一定期間だけ開国してはどうだろうか。
・またアメリカの船が盛んに日本近海を通過しているが、もし日本にアメリカの船が漂着した場合には漂着したアメリカ人を手厚く待遇してほしい。
・捕鯨や清国などの国と交易をしているアメリカの船が日本の港に寄って必要な物資を相応の金品を支払って手に入れることを許してほしい。
親書には以上のような内容が丁寧な表現で書かれています。
吉田松陰さん
松下村塾で伊藤博文や木戸孝允、高杉晋作といった維新に関わる人たちを指導した吉田松陰さん。
吉田さんはペリーが2回目に来航した時にアメリカ側に秘密にかけあって、アメリカの船に乗ってアメリカへ連れて行ってもらおうとしたそうです。当時の日本の決まりでは重大な犯罪であったため、その行為が明るみになった場合吉田さんは捕まって処刑されるかもしれない状況でした。
アメリカ側もそういう状況であることを承知していましたが、日本の決まりを破ることになるので吉田さんの申し出を断りました。その後吉田さんと随行した金子さんは捕まってしまいます。しかしアメリカ側からの要請もあってか、厳罰にされずに済みました。ただ残念なことに金子さんは獄中で亡くなっています。
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ペリー提督が書き残した遠征の記録の中で命を懸けてでも見知らぬ国の文明に関する知識を得ようとするこの吉田さんたちの行為を非常に高く評価しているそうです。
ペリーが来航した時のことを調べてみましたが、黒船で来航したのは彼が初めてではなかったことを私はこれまで知りませんでした。ビッドルさんはなじみの無い名前です。ビッドルさんの時はアメリカの要求を拒否したという事ですから日本もなかなか強気な事をするものですね。
今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。 <(_ _)>
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