江戸時代には飢饉の対策としてどのような事をしたのでしょう

江戸時代の飢饉対策

 

家康さんが将軍になった西暦1603年(慶長8年)から1867年の大政奉還までの約260年、江戸時代が続いたわけですが、その間日本を大規模な飢饉が襲った時期は複数ありました。その中でも四大飢饉などと呼ばれる有名な飢饉があり当時の元号から寛永(かんえい)の飢饉(1640年~1643年)、享保(きょうほう)の飢饉(1732年)、天明(てんめい)の飢饉(1782年~1788年)、天保(てんぽう)の飢饉(1833年~1836年頃)と名付けられています。それぞれの飢饉でたくさんの方々が飢えや病気で苦しみ、亡くなられました。このような災厄に対し世の中を治める側であった人たちはどのような対策をしていたのでしょう。幕府や藩がどこも同じような対応をしていたわけでは全くありませんが、凶作に強い作物の栽培や、食料の備蓄、幕府や藩など政治を執り行う組織や富裕層などを中心とした倹約、救済施設の設置、加工食品製造販売の禁止、飢えを凌ぐための情報提供といった対策が取られる場合もありました。全国的に見れば餓死者が多数発生したような大飢饉の時期においても特定の地域では餓死者をほとんど出さずに済んでいた、などとも言われています。やり方によっては飢饉対策の効果があがっていたようです。

 

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凶作に強い作物の栽培

 

お米が育ちにくいような環境であっても生育する作物を栽培して、お米が仮に取れなかった場合はそのような作物を食べて生き延びようということです。代表的な作物にサツマイモ(甘藷かんしょ)があります。他の地域では餓死者が出ていたにもかかわらず九州の一部の地域で被害者が少なかった理由はサツマイモを栽培していたから。そのような分析がおこなわれ幕府もこれまでサツマイモを栽培していなかった地域でも栽培するよう奨励しました。ジャガイモがそのような目的で普及促進された場合もあったそうです。

 

食料備蓄

 

毎年一定量のお米や麦などの穀物を蓄えるようにして飢饉が発生した時にその蓄えていた食料を飢えた民衆に提供するというものです。江戸時代の有名な政治改革の一つ、松平定信を中心におこなわれた寛政(かんせい)の改革でも囲い米というお米を備蓄する制度が取り入れられていましたが、これは代表的な事例と言えます。また東北地方に存在した米沢藩でおこなわれていた備蓄政策も有名なようです。このような食料備蓄をおこなっていた地域では備蓄のための倉が作られていきました。

 

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倹約

 

政治をおこなう幕府や藩が普段のお金の使い方を見直して無駄の無いように切り詰め、浮いたお金をいざという時のために蓄えておきます。飢饉が発生した時には貯めていたお金を使って食料が多く収穫できた他の地域から穀物などを買い取り、飢えた人たちに提供することが出来ます。金銭的に余裕のある商人などから寄付を募ってお金を集めて食料を買い集める場合もあったようです

 

加工食品製造販売の制限

 

限定的な法令だったのでしょうが、飢えている人がたくさんいる時に商売のために食料を消費してしまうと飢えを凌ぐために必要な食べ物の量もそれだけ減ってしまうことにつながりますので、加工食品の製造販売が禁止されるということもありました。うどんやそうめんは小麦を使いますし、そばは当然蕎麦の実を使います。そういった必要な食料が商業用に使われるのを防ごうという動きもありました。

 

飢餓対策のための情報提供

 

日々食べるものも無いような状況になると自生している植物などを食べることで人々は飢えを凌ごうとします。しかし誤って毒のある植物を食して健康を損なってしまう場合もありました。そのような出来事を減らそうと、食べることの出来る野草などの情報を調理法なども含め書物にして人々に提供するような動きもあったようです。米沢藩が発行した「かてもの」という本が有名だそうです。また飢饉が発生すると感染症が流行することも多く、そのような病の対応法についても有識者が書物にまとめて情報提供するような動きもあったようです。

 

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今回は江戸時代の飢饉でおこなわれた対策について一部取りあげました。江戸時代には規模の大きい飢饉が発生していたことは有名ですので、飢饉に関する記事を作りたかったのですが、飢饉対策について一般的に関心が強かったようなので、このようなテーマで記事を作ってみました。今回は為政者側がどんな対策をしたかを中心に説明しています。民衆レベルでどのような対策を取ったかについてはあまり触れていませんでした。そのような内容を期待されていた方がおられましたら申し訳ありません。飢饉が深刻な場合には稲のわらや松の木の皮(軟らかい部分)すら食べることもあったという話もあるようで、今の時代を生きている私にとっては想像を絶する話です。飢饉が深刻な場所では非常におぞましい出来事も起きていました。本当に食べ物が無くなるということは大変なことです。同じ飢饉の時期においても領地によっては餓死者があまり出なかったり、餓死する人が多数出たりと様々だったようです。厳しい気候の領地はハンデが大きいでしょうけれど、為政者がどのような対応をするかで領民の運命は大きく左右されてしまうことになるわけです。ということになりますと、政治と言うのは一般的にとっつきにくいもののように思われがちですけれど、どんな政治がおこなわれているかというのはやはり軽視できない話だと言えます。いざという時に備えていないと人々が大変な目に遭うということも今回の記事を作っていて強く感じました。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

飢饉時の死者が少なかった白河藩の藩主による政治改革の話「松平定信の寛政の改革とはどのような内容だったのでしょう」はこちらです。

全く別の時代で食料不足になってしまった時の話「戦後の闇市とは何なのでしょう?判事さんの件も」はこちらです。

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