安政の大獄とは?断行された理由と西郷隆盛の関わりついて

安政の大獄とは何なのでしょうか

 

井伊直弼(なおすけ)公が大老に就任した後、第14代将軍に徳川慶福(よしとみ)紀伊藩藩主が就くことに決まったり日米修好通商条約を結んだりと意見が大きく二つに分かれる案件についてバッサリと結論を出していきました。

このような幕府の決定、幕府の政治について意見が異なる人たちから強い反発が出ました。意見が大きく二つに分かれていた問題なので当然ですよね。

その強い反発に対し幕府側も強硬な態度に出ました。幕府の政治に反対する人たちをどんどん処罰していったのです。この一連の処罰をさして安政の大獄(あんせいのたいごく)と言います。西暦1858年から1859年にかけて行われたそうです。

藩主や前藩主といったお殿様クラスから藩の家臣、お坊さんのような宗教者、名主さん、お医者さんなど様々な立場の人物が処罰されました。罰の重さも様々でお殿様クラスの方々には家で引きこもるようにとか隠居しろといった程度で済ませたようですが、処刑されたり獄中で亡くなられた方もおりますし、居住地から追放されたり遠い島に行く羽目になったかたもおられたようです。100人以上の方が罰せられたそうです。

 

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安政の大獄が行われた理由

 

前の項目にも書きましたが意見が真っ二つに分かれ、なかなか解決案がまとまらない問題について強引に結論を出したわけです。反対派の人たち、つまり攘夷派で日米修好通商条約を結ぶことに反対な人たちや開国派であっても朝廷の許可なくこのような重要な条約を結ぶことに反対な人たち、14代将軍の候補として一橋慶喜さんを推薦し徳川慶福さんとすることには反対していた人たち、こうした人たちは強く反発しました。この強い反対意見を抑えるために厳しい処置をとることを幕府は選択したわけです。

 

それくらい強硬な策をとらなければ余計反対運動が強まると思ったんでしょうかねー。それと他の藩や一般の民間人に幕府の政治についてとやかく口を挟ませたくないという考えが井伊大老当時の幕府では強かったのかもしれません。(あくまで推測ですが)

 

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西郷隆盛さんの関わり

 

明治維新の有名人、西郷隆盛さんは安政の大獄で処罰対象とはなっていません。しかし西郷さんと親しくしていた人物がその対象となりました。月照(げっしょう)さんというお坊さんです。異国を日本から武力で追い払い朝廷中心の政治を行うべきだという尊王攘夷論者の方でした。この方は幕府に捕まることは無かったのですが、海で自殺されてしまいました。この自殺の時、西郷隆盛さんも一緒に海に入り自殺しようとされたそうですが、西郷さんは入水したものの結果的に死なずに済んでいます。

なぜ一緒に西郷さんも自殺しようとしたのでしょう。月照さんが西郷さんと共に薩摩藩に逃げようとしたものの薩摩藩は月照さんを保護しようとしませんでした。おまけに西郷さんに月照さんを殺すよう薩摩藩は西郷さんに命令したのだそうです。月照さんをかくまって江戸幕府ににらまれるのを薩摩藩は嫌がったわけですね。

これまでお世話になってきた月照さんを殺すことを命じられ、困りに困った西郷さんは自分も自殺しようと考えた、という事のようです。

 

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今回は安政の大獄を扱ってみました。厳しい弾圧ということは歴史の授業で出てきますが発言力のある藩主のような人に対する処罰はまだしも、名主さんやお坊さん、お医者さんまで処罰されるような出来事だったという印象はありませんでした。積極的に主張していた人は取りこぼさず罰するという事を徹底したようです。社会の底辺で反対意見が浸透するのを幕府は警戒していたのかもしれませんね。

阿部正弘(まさひろ)さんの時の幕府は色々な立場の人に意見を求め、井伊大老の時の幕府は自分たちの意見を強引に実行し、他の立場の人の意見は切り捨てました。上に立つ人の考えで組織の方針は全く変わるものです。幕府と異なる立場で意見を主張してきた人の中には、はしごを外された気分となった方も多かったかもしれません。

今の時代はそうではないかもしれませんが、もし政治的発言をするのならば、リスクがついて回るという事を覚悟しておいたほうがいい。そう感じさせる出来事だと思いました。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

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