天智天皇と天武天皇はどういった関係だったのでしょう

天智天皇と天武天皇の関係

今回は飛鳥時代に発生した内乱、壬申の乱(じんしんのらん)に関わってくる二人の天皇、天智天皇(てんじてんのう)と天武天皇(てんむてんのう)の関係について取り上げてみます。天智天皇も天武天皇もどちらも飛鳥時代に皇位にあった方々です。何代目の天皇なのかということで言えば天智天皇は第38代目の天皇にあたるかたで、天武天皇は第40代目の天皇。天智天皇のほうが先に天皇を担当しました。天智天皇と二代あとの天皇、天武天皇はどのような関係にあったのかですが、様々な説があるものの、一般的には天智天皇と天武天皇は同じ父親と母親から生まれた実の兄弟であると言われています。また天武天皇は一時的にではありましたが天智天皇の後の天皇後継者という立場にありました。そして天武天皇は天智天皇の娘にあたるかたと婚姻関係にあったという事実があり、義理の親子という関係でもあります。また先ほども名前を出した出来事、壬申の乱では天智天皇の息子さんにあたるかたと天武天皇が戦をおこなう関係となってしまっています。非常に近い間柄でもあり、天智天皇、天武天皇の直接二人の間でというわけではないものの命の奪い合いがおこなわれていました。

スポンサーリンク

ご兄弟

天智天皇は西暦626年に生まれたとされておりますが、天武天皇はいつ生まれたのか明確になっていないようです。しかしお二人の父親は舒明天皇(じょめいてんのう 第34代天皇)で母親は皇極天皇(こうぎょくてんのう 第35代天皇。名を変えて第37代目の天皇にもなっています)だと言われています。母親も皇族のかただったんですね。天智天皇がお兄さん、天武天皇のほうが弟さんだったと言われています。天智天皇が天皇となってしばらくの間は天武天皇、天皇即位前は大海人皇子(おおあまのおうじ)というお名前だったそうですが、彼は皇太弟(こうたいてい)という立場にあったそうです。皇太弟とはこの場合天智天皇の次に天皇を担当する弟さんということになります。天智天皇のお子さんではなく弟さんが当初は天皇後継者として定められていたんですね。

義理の親子

また天智天皇と天武天皇は義理の親子でもあります。天智天皇にはたくさんのお子さんがいらっしゃったようですがその中のお一人、後の持統天皇(第41代目天皇)となられる女性が大海人皇子(天武天皇)と結婚されています。持統天皇だけではなく、天智天皇の他の三人の娘さんたちも大海人皇子と結婚したという話もあるようですが、とにかく持統天皇の件だけでも天智天皇と天武天皇は義理の親子という関係だったことになります。

スポンサーリンク

天智天皇の息子さんと天武天皇が対立

天智天皇の息子さんである大友皇子(おおとものおうじ)と大海人皇子(天武天皇)が天智天皇の死後に戦をおこなっています。先ほどから出ている出来事、壬申の乱ですが、この戦で大友皇子は敗れ自ら命を絶っています。前の項目で天武天皇は天智天皇の皇太弟だったと述べましたが、その話は途中で変わってしまいました。天智天皇の考えが変わり自分の次の天皇の立場を弟の大海人皇子にではなく自分の息子、大友皇子に担当させることとします。皇太弟という立場ではなくなったことについて大海人皇子が不満だったのかどうかは何とも言えませんが、大海人皇子は皇位に関する野望が無いことを示すためなのかその後出家し吉野(現在の奈良県吉野町よしのちょうにあたる地域)に転居しました。天智天皇は西暦672年に亡くなります。その後間もなく大海人皇子が挙兵して大友皇子と戦い、大友皇子が敗れ大海人皇子が天皇として即位、天武天皇となりました。天智天皇が第38代目、天武天皇が第40代目の天皇と先ほども述べましたが、その間に入る第39代目の天皇というのは大友皇子である弘文天皇(こうぶんてんのう)でした。彼が皇位にあったのは極短期間だったということになります。

スポンサーリンク

今回は天智天皇と天武天皇の関係について一部取りあげました。壬申の乱について記事にしようと思ったのですが、天智天皇と天武天皇の関係について一般的に関心が持たれているようなのでこのようなテーマで壬申の乱についても少し触れてみました。天智天皇が政治をしていた頃、大海人皇子(天武天皇)は皇太弟として天智天皇を支えていたわけです。そういった頃はお二人の関係が必ずしも悪かったわけではなかったのでしょうが(関係が悪ければ天智天皇も大海人皇子に政治関与させなかったでしょうし)、後継人事が意識されるような時期になって距離が出来ていったということなのでしょうかね。天智天皇の政敵が命を落とすような出来事もかつてあったようですので、後継者の立場ではなくなった後に大海人皇子が出家して吉野に転居するというのは天智天皇から命を狙われないようにするための大海人皇子なりの対策だったのかもしれません。天智天皇の死後、後継者である大友皇子を大海人皇子(天武天皇)が死に追いやるというのは権力を手にするために身内の人物であっても命を奪うというえげつない話にも聞こえますが、大友皇子が大海人皇子を殺そうとしているという情報を知って大海人皇子が挙兵したという話もあるようです。自分が行動しないと相手に殺されてしまうという状況であれば自分の身を守るために挙兵するのもやむを得ないのでしょう。本当かどうかは何とも言えませんが。政治権力というものが関わると近親者同士でこうやって争うような状況にもなってしまいかねないわけです。こわいですねー・・・。

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

天武天皇の名前が出てくる他の話題「日本の歴史書、古事記が編纂された理由は何だったのでしょう」はこちらです。

天智天皇の子孫である天皇が関わってくる話題「平安京に朝廷の拠点を移したのは何が理由だったのでしょう」はこちらです。

関連記事

ページ上部へ戻る