戦国時代の日本で鉄砲の伝来はどのように影響したのでしょう

鉄砲が戦国時代にもたらした影響

 

日本に鉄砲が伝わったのがいつだったのかということはキリスト教の伝来と同様、社会や歴史の授業で重要な出来事として取りあげられる項目の一つです。キリスト教伝来の6年前、天文十二年、西暦1543年に鉄砲が伝わったと言われています。九州の南部、鹿児島から40キロメートルほど南の位置にある島、現在は日本の宇宙開発で大きな役割を果たしている種子島(たねがしま)に中国大陸の船が漂着しました。その船に乗っていたポルトガル人がたまたま鉄砲を所有していたことで日本に鉄砲が伝わることとなります。ポルトガル人が鉄砲を撃って島の領主に威力を見せたところ大変関心を持ったそうで、領主の種子島さんは非常に高い価格をポルトガル人に提示されたにもかかわらず2丁購入したのだとか。ここから日本人による鉄砲の研究が始まり鉄の加工技術を持った人々の手によって日本国内でも鉄砲が生産されるようになっていきます。こうして日本に伝わったわけですが、当時、高価な武器であった鉄砲は戦国時代の日本にどのような影響をもたらしたのでしょう。日本国内の戦で鉄砲が使われるようになってから戦での戦い方に変化が起きたと言われていますし、武将の方々の戦略拠点となるお城の構造も変化したと言われています。また鉄砲の保有が戦の結果に大きく関わるようになったという見方もあるようです。

 

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戦い方の変化

 

戦に慣れた武将が馬に乗って一騎打ちをおこなうような戦い方がそれまでの戦では多かったそうですが、鉄砲が戦で使われるようになってからは鉄砲を持った集団、鉄砲隊の戦で果たす役割が大きくなったそうです。鉄砲の扱いを任された兵員は足軽という、身分的に言えば低い立場の人々でしたがそういった人々が集団で鉄砲を撃つことによる破壊力は大きく、戦の経験がそれ程無い人々でも鉄砲の扱いに慣れれば経験を積んだ騎馬武者を相手にしても勝負になったようです。そのため鉄砲を用いた集団戦法が重用されるようになっていきました。

 

城の構造の変化

 

鉄砲が普及するまで、お城は険しい山の中に作られることが多かったようです。そういったお城の大きさはそれほど大きくもなく、険しい地域の建物のため堀もそれほど作らないような類の城でした。しかし鉄砲が戦に使われるようになるとそれまでのお城では、城にこもっている側の人々は外からの鉄砲の攻撃に対し、しっかりと身を守ることが難しくなったようです。

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鉄砲による攻撃で打撃を受けることを防ぐため、近付きにくい構造のお城が造られるようになりました。城の建物の周りに規模の大きな堀を作り、外部から鉄砲を撃ったとしても堀の存在によって城の建物本体との距離を保つことが出来、以前の山城に比べ鉄砲による城の損傷を防ぎやすくしました。大きな堀を城の周りにしっかりと造るために城が建てられる場所は山の中から平地に変化していきました。また鉄砲の弾が壁を貫通することの無いよう塀の幅を厚くしたりや城の壁を厚くするといった工夫もおこなわれていきました。かねてから城には城の外部から攻めてくる敵に対し城の内側から弓矢を使用して攻撃をおこなうため、城の壁や塀に「狭間 さま」と呼ばれるすき間が設置されていたそうですが、鉄砲が用いられるようになって鉄砲用の狭間も設置されるようになったそうです。

 

勝敗に影響

 

鉄砲の使い方によって戦の勝敗に影響が出るようになりました。有力戦国大名として知られる武田勢と織田勢の争い、天正3年、西暦1575年の長篠(ながしの)の戦いでは大量の鉄砲を大勢の兵員に効率的に使用させた織田勢が、戦に強いことで有名だった武田勢に勝利しました。この戦で敗れた武田勢は多くの重臣を失う結果となっています。見解が分かれてもいるように見えますが、鉄砲の登場によって以前に比べて戦の勝負がつくまでの期間が短くなったという見方もあるようです。

 

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今回は鉄砲の伝来による影響について一部取りあげました。鉄砲がもたらした影響については信長さんの勝った長篠の戦いが象徴的であるようにも感じますが、戦で鉄砲を有効に使った側が有利ということ以外には特に鉄砲の影響が思い浮かばず、他に何かあるのか確認したい思いもあってこのようなテーマでの記事にしてみました。城の構造についてはそれまであまり考えることもありませんでしたが、鉄砲が戦で使われるようになった場合、戦の相手が城にかなり近づいてしまうと至近から鉄砲を撃たれてしまい城にいる人たちは確かに不利です。険しくない場所に造られた大きな堀を構えたお城という、一般的に印象に浮かぶことの多い気がするお城は鉄砲の影響で出来ていったものだったんですね。しかし思い出したのですが大坂冬の陣で徳川方が射程距離の長い大砲を大坂城目がけて放ち、城郭を破壊する光景を時代劇で見かけることが以前ありました。鉄砲による攻撃に配慮していたであろう、攻めにくく建造されていたはずの大坂城も打撃を受けて淀君さんがひどく動揺する演出がされていたように記憶しています。豊臣家が滅んで徳川家の仕切る世の中になり国内で戦が行われなくなっていったため城の構造もそれ以降変化することはあまり無かったのでしょうけれど、大砲が諸大名に普及し戦のある世の中が続いていた場合には大砲からの攻撃にも耐えられる、さらに攻略しにくいお城が建てられるようになっていったのかもしれませんね。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

鉄砲が関わる信長さんの戦略について触れている話「信長さんが堺を直轄地にした目的は何だったのでしょう」はこちらです。

今回の記事にも名前を出した長篠の戦いについて触れている話「織田信長さんは長篠の戦いでどんな戦法を使ったのでしょう」はこちらです。

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