江戸幕府将軍である徳川家茂公が上洛した理由について

上洛の理由

 

1863年(文久3年)に将軍自らが京都へ赴いた(上洛した)のは朝廷から将軍に対し上洛の要請が出ていたことが理由となります。

当時の朝廷は江戸幕府の将軍である徳川家茂(いえもち)公を朝廷のある京都にわざわざ呼びつけ、外国勢力を武力で日本から追い払う「攘夷」を実行に移すよう家茂公本人に求める考えでした。

 

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朝廷が攘夷を求めた理由

 

当時の天皇であった孝明(こうめい)天皇は他国と通商条約を結ぶことに賛成しなかったことから見ても他国との関係を深めることには消極的だったと思われますが、条約に関する朝廷の考えを伝える時も別に攘夷を実行するよう幕府に求めていたわけではありませんでした。

それまでに朝廷は薩摩藩の島津久光(ひさみつ)さんの求めに応じて幕府に政治改革を求めています。その改革によって幕府の政治にかかわるようになった政事総裁職の松平慶永(よしなが)公や将軍後見職の一橋慶喜(よしのぶ)さんは特にこの時点で攘夷行動を強く主張するような人たちではありませんでした。島津久光さんは薩摩藩の攘夷派藩士たちを粛清しています。久光さんが攘夷派の人であればそのようなことはしないでしょう。しかしこの時の朝廷は幕府に攘夷を実行するよう強く求めました。かなり朝廷の姿勢は変化していたようです。

当時の京都では長州藩が盛んに活動し、朝廷内の攘夷派の公家の人たちと連携を強めていました。その攘夷派の公家の人たちが孝明天皇に対する働きかけを強めたことで幕府に直接攘夷を求めるという流れになりました。攘夷派が主導権を握っている長州藩をはじめとした勢力や攘夷派の公家の人たちによる活動、これが幕府に攘夷を求めた直接の原因ということになるかと思われます。

 

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朝廷による攘夷要求の結果

 

幕府は朝廷に対し攘夷を行うことを約束する事となりました。具体的には(西暦1863年の)5月10日に攘夷を行います、という内容を約束します。幕府は朝廷と約束したわけですし各藩に攘夷を行うよう命令を出しました。

この命令が出たものの、ほとんどの藩、そして幕府も他国に武力行使をしませんでした。この幕府の命令通りに他国に対して武力行使をしたのは長州藩だけでした。

 

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今回は朝廷による攘夷実行の要求について調べてみました。将軍が直接京都へ上るというのは何百年もなかった出来事だったそうです。この上洛で朝廷の立場は相当強いことと以前に比べ幕府の立場が弱まったことが示されたのではないでしょうか。何百年も将軍の上洛が無かったというのは朝廷が幕府に遠慮していたということの表れのような気がしますがどうなのでしょう。今までが単に上洛を求めるような混乱した時代ではなかった、ということでしょうか。

今回調べてみて長州藩などの攘夷派勢力の働きかけが朝廷の攘夷要求のきっかけであるということを知りました。朝廷内部に攘夷派の公家の人たちがいなければこの働きかけは実を結ばなかったのかもしれませんが、攘夷派勢力が結果として朝廷を動かしたのですから彼らの影響力というのは当時大変大きかったということですよね。攘夷に反対の公家の人たちも朝廷にはいたと思いますが、そのような人たちはこの時期どうしていたのでしょう。表だって強硬に攘夷に反対したら攘夷派の勢力に狙われたのでしょうか。そこはよくわからないのですが。

幕府は朝廷の求めに応じ攘夷の約束をしますが、幕府は実際には武力行使しませんでした。もし武力行使した場合どのようなことになるか、幕府はよく理解していたからではないでしょうか。欧米列強に大国の清も負けてしまっているわけですから。ここで幕府が本当に武力行使してしまっていたら西欧諸国にやはり敗れていたのではないかと思いますが、どうなのでしょう。この武力行使しなかったという点に関しては幕府の対応はやむを得なかったのかなぁという気がします。

朝廷にも表だって逆らえず、かといって約束を実行に移したら日本が大変なことになってしまう・・・。本当に当時の幕府は難しい立場に立たされていて気の毒な感じですね。こういう目にあったわけですから、長州藩をはじめとした攘夷派勢力に対する幕府の恨みは相当強かったのではないでしょうか。まさか朝廷の今回の動きの背後に彼らの存在があることを幕府が気づかないはずはないでしょうから。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

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