中国の統一を実現した宋という王朝の建国者について

後に中国を統一する宋王朝の建国者

中国大陸の大昔の出来事やかつて存在していた王朝の歴史、中国大陸の広い範囲を勢力下におさめることとなった宋という国にまつわる話題などについて関心を持たれてこのページに来られた皆様、こんにちは!この記事では唐という王朝が滅亡した後、久々に長期間続き、かつ大陸の広い範囲を統治した「宋(そう)」という王朝を建てた人物について自分なりに書いてみたいと思います。宋を建てた人物は趙匡胤(ちょうきょういん)という人です。宋という国は漢民族の国だと言われているので建国者の趙さんも漢人だと見なされておるようです。趙さんはもともと宋が誕生する以前に存在していた国、後周(こうしゅう)で軍人だったかたです。趙さんの父親は趙弘殷(ちょうこういん)という人で五代十国という唐滅亡後の時代においてその時々に台頭したものの短期間で滅んでいく大きな国々、後唐、後晋、後漢(こうかん)、後周などである程度の軍勢を率いるような立場の軍人でした。その御子息の匡胤さんも後漢政権の重臣に兵員として取り立ててもらいます。取り立ててくれた重臣が後漢政権に対し反乱を起こし、後漢を滅ぼし、後周という国を建てます。匡胤さんは後周の初代皇帝の養子、柴栄(さいえい)という人のもとで活躍し武人として昇進しました。後周にとって大きな脅威であった契丹(きったん)という国と北漢(ほっかん)という国が連合を組んで攻めてきた時に柴栄さんは率先して敵陣に突入して行きました。そんな柴栄さんを匡胤さんはそばで守りながら、一緒に攻め込み劣勢な中後周の勝利に貢献したのだそうです。匡胤さんは戦いでの働きが認められ皇帝を守る軍勢の指揮官に抜擢されるのでした。大変な出世です。匡胤さんをとても評価してくれた柴栄さんは後周二代目皇帝として諸国の統一を目指し支配地域の拡大にも成功していたのですが若くして病のためにお亡くなりになります。39歳でした。

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禅譲へ

亡くなった後周の皇帝、柴栄さんはまだ若かったので後継ぎとなるお子さんはいたものの国を率いていくにはあまりにも幼すぎる年齢でした。7歳だったと言われています。後周を取り巻く状況は到底平穏無事なものではなく、柴栄さんが存命中に発生したような北方の国々との戦もまた起こってしまうかもしれません。皇帝が7歳ということが理由で今の後周は攻撃するのに非常に好都合な状態だと周辺諸国の指導者たちが考えても不思議ではないでしょう。国が攻め込まれてひどい目に遭うのはかなわないということできちんと国を統治することの出来る人間がリーダーになるしかないと考えた後周の軍人たちは、当時人望のあった匡胤さんをトップに据えることを企てました。匡胤さんの弟さんを含めた後周の軍の人々が匡胤さんに働きかけます。柴栄さんに引き立ててもらった結果、軍の幹部に昇進することが出来た匡胤さんは亡くなられた柴栄さんに恩がありますし、その恩のある柴栄さんの幼いお子さんから皇位を奪い取るなどということは恩を仇で返す様な行為になってしまいます。国の指導者になってほしいと持ち掛けられた話を断る匡胤さんに対ししつこく迫る軍の人々。とうとう匡胤さんも折れて条件を付けた上で皇帝になる話を受け入れます。後周の幼い皇帝は匡胤さんに皇位を禅譲することとなりました。匡胤さんは後周の都や政府で略奪をおこなった兵は厳しく罰すると命令したそうで後周から新しい王朝、宋に移行する際、大きな混乱も起きませんでした。といった皇位の移譲を巡る話が残っているようなのですが、匡胤さんが皇位を幼帝から奪うなどということは考えてもいなかったというのは単なる匡胤さんを美化しただけの話なのかもしれません。しかし本当の話ではないと断定出来るものでもないので、信用できるのは話半分程度かなとは思うものの紹介させていただきました。軍の関係者たちから信頼されていて指導者としてふさわしいと思われていたのは本当なのかなと個人的には感じています。

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皇帝になってから

後周の幼い皇帝から皇位を禅譲してもらった匡胤さんは新しい国の初代皇帝という立場になりました。国の指導者となった匡胤さんはこれまで大陸に存在していた国と比べ、おもにどういった人たちに政治を担当させるかといったことや軍の兵員をどのように配分するかなどといったことについて特徴のある政策をおこなったとされています。匡胤さんは国の政治を軍人ではないお役人、文官に任せるようにしました。中央政権には中書省だの枢密なんだのと言った機関が作られ、財政や民衆を対象とした政策分野、そして軍事に関する政策が別個に行われていたのですが、そういった機関の責任者には文官が配置されました。軍政に関する機関でもトップは文官ということなのでこの点は結構なこだわりが感じられます。そういった国の政治を具体的に進めていくにあたって当然お役人が必要となるわけですが、そういったお役人を任用するために、かつて大陸に存在していた隋や唐などの大国がおこなっていたように、宋でも役人登用選抜試験である科挙(かきょ)が実施されました。試験が実施されたという点は過去の王朝と同様ですが、宋の場合には身分の高い階層の子弟を試験に合格しやすくするような、受験者によって試験結果に手心を加えるようなことを排除した公正な試験だったと言われています。また建国当初からというわけではないものの、匡胤さんが宮廷で直接受験者に試験を課す殿試(でんし)なるものも科挙の一環として導入されました。きっかけは科挙実施にあたって不正行為が発覚したためだったそうです。大変な難関を潜り抜けて科挙に合格したとんでもなく優秀な人材が宋の政治実務を担当していきます。軍人が政治に入り込む余地は無くなりました。また決められた地域の国防を担当する軍勢の指揮官である節度使については軍人が担当する場合が勿論ありましたが、空席が生じた場合には文官が任命されるようなこともあったそうです。また兵員の新規採用を中止するなどして地域に配置される兵員の数を削減するような政策も取られていきました。その代わり皇帝直属の軍勢の兵員は増強されています。中央で軍人が実権を握ったり、地域で軍人が反乱を企てて国を滅ぼしてしまうような危険性を出来るだけ取り除きたいという匡胤さんの考えがうかがえます。

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今回は五代十国と呼ばれる時代の後に中国大陸の大半を統一することとなる国、宋王朝の建国者、初代皇帝である趙匡胤さんについて一部取り上げました。中国大陸の歴史については三週前に公開した記事で唐王朝が滅亡した理由について書いておりますが、その後現代の日本の財政に関する話題を二回にわたって取り上げておりますので久々の中国大陸史ということになります。本当であれば五代十国時代の最初のあたりの話題から記事にしていくべきなのかとも思いますが、なかなか関心が集まるテーマも乏しいようですし、込み入っていてわかりにくい印象もあったので、すっ飛ばして宋王朝に関する記事としてみました。宋王朝の政治に関する特徴として本文でも触れましたが政治に関しては文官が重用され、武力による威嚇を背景とした武断政治ではなくて文化に基づいて民を統治し平和な世の中を築こうという文治主義という考え方があるのだそうです。一方宋が誕生する以前の中国大陸の世の中では武断政治が跋扈していたと言われています。とにかく地方の軍閥が中央政権を乗っ取るようなことが相次いで、安定した政権が長く続くようなことにはなりませんでした。匡胤さんが地方軍組織の兵力削減を進めたのはそういった下克上を未然に防ぎたかったからということなのでしょうが、かといって軍人にものすごく不満がたまったというわけでもなく、建国時大きな権限を持っていた軍人たちには兵を動員する権利を中央政府に返還させるかわりに経済的な特権をきちんと提供してそれなりに満足してもらうような配慮もしていたそうです。匡胤さんは人心の掌握にとても長けていた人物だったという歴代の皇帝の中でもかなり高い評価がされていることを今回初めて知りました。また禅譲という形で実質的に後周の幼い皇帝から皇位を奪った匡胤さんですが、その後も態度をガラッと変えてかつての皇帝の命を奪うような、どこかの王朝の皇帝のような冷酷な真似は全くせず、皇位を得た後も後周の皇族の方々を丁寧に待遇したそうです。おかげで後周の皇帝一族は宋王朝が続いている間も血統を保ち続けることが出来ました。このサイトで大陸の王朝のトップをこれまでも扱ってきましたが、趙匡胤さんはそれらトップに君臨した人物たちの中では確かにかなりまともな人柄だったのだろうなぁと感じました。

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

今回の記事では写真ACで提供されている画像を使用させていただいております。

唐成立時の前皇帝のその後について触れている話「中国大陸で唐王朝を建国した初代皇帝について」はこちらです。

前漢末期の皇帝について触れている話「大国、前漢が滅亡してしまった理由は何だったのでしょう」はこちらです。

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