大国、前漢が滅亡してしまった理由は何だったのでしょう

前漢が滅亡した理由

中国大陸の古代の出来事(特に漢王朝時代の歴史)や、かつては大変栄えた国が滅亡してしまう理由といったことに関心を持たれてこのページに来られた皆様、こんにちは!この記事では大帝国、秦が滅んだあとに誕生した王朝、漢(前漢ぜんかん)が滅亡してしまった理由について自分なりに書いてみたいと思います。前漢が滅んだのは紀元後8年と言われています。別の王朝、新(しん)が誕生したことで前漢の長く続いた歴史は終わりを迎えてしまいました。前漢という王朝、皇帝の代は14代を数えます(その間ごく短期間帝位についた別の人物もいたそうでその方を入れなければ13代という見方も出来るようですが)。国力の大変盛んだった時代は7代目の武帝さんの時だったという指摘が多いようですが、その時代には周辺諸国に侵攻して領土もどんどん拡大していきました。南側は現在のベトナムが存在する地域まで、東側は朝鮮半島の北半分まで、西側は現在のウズベキスタン(ウズベキスタンと聞いて大体の位置がわかる方ってすごいですね。私はわかりませんでした。ウズベキスタンの南側にはアフガニスタンやイランといった国々があることを考えると、あぁ、かなりアジア大陸の西側の地域だなぁということが何となく感じられませんでしょうか)が存在する地域まで支配地域を拡大しています。当時の世界の中でも有数の大国であったであろう前漢王朝。どうして滅亡してしまったのでしょう。直接的な原因としては前漢の末期に政治的な権限を握っていた人物にとって前漢の存続など二の次であったからということが言えるでしょうし、別の言い方をすると皇帝がしっかりと指導力を発揮することの出来る体制ではなくなっていたから、そのようにも言えるかと思います。どうして前漢が栄えていた頃のように皇帝が指導力を発揮できなかったのかということに関しては政治組織内に存在していた色々な勢力によって実質的な権限を巡って奪い合いがおこなわれており、そのため組織が安定していなかったからという指摘が多いようです。前漢滅亡の理由については、直接的な原因からそれに関係する背景も含めていくと当然様々なことがかかわって来ますが、自分なりに簡単にまとめると今述べたような内容になるかと思います。滅亡の直接的な原因については次の項目でもう少し詳しく書いてみます。

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武力とは違う形で皇帝の座が奪われてしまいました

前漢の最後の皇帝は平帝という方でした。大変お若い時に皇帝となられています(私が調べた範囲では9歳の時に即位)。9歳という年齢はどうなのでしょう。自分が9歳だったころのことを考えると政治のことなど理解するよう求められてもおそらくチンプンカンプンだったのではないかなという気もします。常識的に見ても即位間もない時点で平帝さんが権力をしっかりと握り国政を運営するなどというのは現実的ではなかったのでしょう。ということで代わりに政治を動かす人がいなければ国が機能しなくなってしまいます。この時期に政治を実際に動かしていたのは王莽(おうもう)という人だったと言われています。前漢の実質11代目の皇帝、元帝(げんてい)さんの皇后(正室、奥さんのことですね)の一族、王氏に連なる人物です。実質12代目の皇帝、成帝(せいてい)さんの従弟(いとこ)にあたります。皇帝となった人物の親戚という立場は当時の政権内で大変な影響力があったため、皇帝が亡くなった後に正式な後継ぎがいない場合、誰を次の皇帝とするか決めることが出来てしまいました。12代目の成帝さんにも13代目の皇帝、哀帝(あいてい)さんにもきちんとした後継ぎたる男子がいなかったそうです。それは単なる偶然なのか、それとも後継ぎとなる男子が生誕しても権力を奪いたいものがその赤子の命を奪ったからなのか。成帝さんの場合は皇子さまが殺害されたという出来事があったそうです。王莽さんは哀帝さんが亡くなられた後、次の皇帝に平帝さんが即(つ)くことを決めてしまうのでした。王莽さんが平帝さんの成長する期間、しっかり補佐をして成人になったところで平帝さんに政治を動かす力を集中させようと思えば出来たのかもしれません。しかし王莽さんはそうしませんでした。何をしたか。平帝さんを毒殺したと言われています。平帝さんは14歳の若さでこの世を去ってしまいます。それなりの軍事力を持つ勢力が激突して雌雄を決し、その結果勝者が政治を動かす力を手に入れるといった事例とは全く違う展開で前漢は終わりを迎えます。平帝さんを毒殺した王莽さんは(こんなことをする人物に「さん」付けの必要はないと感じつつも記事内の統一をはかる上で「さん」付けを続けます)別の人物を皇帝にして前漢王朝を継続させることは無く、あろうことか自分が皇帝となり新たな王朝、「新 しん」を誕生させてしまうのでした。本来主君であるはずの人間に反逆した悪人という意味の言葉、「逆賊(ぎゃくぞく)」を当てはめるのがピッタリのかただと言えるのではないでしょうか。歴史ファンからの人気が集まる人物とは到底思えません。

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組織内での混乱

前漢が衰退する時期について参考書のようなものを見てみると外戚(がいせき)と宦官(かんがん)が権力争いをしたという説明がされています。外戚は皇帝の奥さん、皇后となる女性の一族のことであり、先ほどから名前の出ている王莽さんも外戚に分類されます。皇帝から見ると奥さんの一族ということならそれほど気にも止めないかもしれませんが、皇帝から見て母親にあたる人の一族ということになると母親の手前、あまり冷遇するのも気が引けるものなのかもしれません。宦官はお役人の一種であり、宮中内で皇帝の手足となって動く人たちでした。宮中で働く女性職員と関係を持つことの無いようにということから、去勢されているという大変重要な特徴を持っているお役人たちです。私個人の価値観からするとそんなことしてまでお役人になりたいのかと疑問に思ってしまうのですが、当時この宦官になりたいという人が大勢いたのだそうです。出世するのに有効な道として知られていたんですね。普通の一般民衆として生活していくのがそれだけ大変だったということなのかもしれません。宦官は皇帝のただの手足として働いているばかりではなく、皇帝の政治判断を左右するような知恵袋として機能することもあり、そのため皇帝から厚い信頼を勝ち取る場合もありました。もし外戚側が政治を動かしたいという野望を持っている場合、皇帝のおそば近くに仕える宦官たちが目障りに映ることでしょう。ただ宦官勢力は11代目の皇帝、成帝さんの時に宦官が力をふるっていた役職が廃止されたことで衰えたそうです。その代わりに外戚勢力の発言力が強まりました。次の帝位に誰が即くかということが議論となると勢力間で特に軋轢が生じました。12代目の哀帝さんから13代目の平帝さんに帝位が移った時に関して言えば、宦官と外戚の争いということではありませんでしたが、哀帝さんが寵愛した役人のかたと外戚勢力の王一族の間で対立が起きます。哀帝さんは董賢(とうけん)という寵愛していた役人に皇帝の意思表示を意味する印鑑などを渡し、次の皇帝に誰がなるか決める権限を与えて死んでいったそうですが、王莽さんは董賢さんから印鑑などを奪い強引に自分たちで次の皇帝を決めてしまいます。権力組織内で混乱していますね。外戚勢力が台頭し過ぎているとも見ることが出来るでしょうか。死去された哀帝さんの意思は尊重されませんでした。

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今回は前漢王朝が滅亡した理由について一部取り上げました。前漢については最盛期の政策など、取り上げていない話題もあるのですが、ネット上で関心があるテーマとしてこの王朝の滅亡の理由というものがあるようですので今回のような題で記事にしてみました。前漢という約220年間も続いた王朝について3記事くらいで通り過ぎていくのはさすがに無理がありますがご容赦ください。前漢の終わりは秦王朝の終わりと比較するとかなり違いがありますね。ある人物が皇帝に毒を盛る行為で王朝が終わってしまうというのは何ともはかない気がします。多くの名だたる人物が出現して戦の末に秦が倒れ、堂々と漢王朝が誕生したことを思い起こすと、今回滅亡したいきさつを知ってこれが同じ王朝なのかと首をかしげてしまいます。劉邦さんが平帝さんの末路を知ったらどう思うのでしょう。怒りまくって「皇后となる者の一族には一切政治にかかわらせるな!」と部下に命令したかもしれません。この平帝さん毒殺という出来事を教訓として、後に誕生する王朝では何らかの外戚対策をとるものなのでしょうか。日本に関して言えば蘇我氏とか藤原氏といった一族が政治的な影響力を持ったことは有名です。そういった一族も天皇の奥さんの一族として政治的な権限に近付きました(蘇我氏の場合はもともと有力な勢力だったから今回の事例とは話が違うかもしれませんけれど)。平清盛さんも娘を天皇の皇后にして誕生した男子を安徳天皇として皇位に即かせたりしています。そう考えますと日本の朝廷はあまり漢の歴史を参考にしていなかったということでしょうか。本当は嫌でも有力な勢力から皇后として女性を迎えなければならなかったという事情もあったかもしれません。藤原一族は皇族のかたを追いつめて死に至らしめたりもしているわけですし外戚問題というのは中国大陸の王朝に限った課題ではないように思いました。君主に政治権力があるとどうしてもこういったことになってしまうものなのかもしれません。自分の主として重んじなければならない君主を毒殺してまで手に入れたかった皇帝の座。しかし王莽さんを頂点とする新しい王朝「新」は短期間で滅亡します。短期間で滅亡したのはなぜだったのでしょう。参考書を見ると大きく制度を変更し、それが社会の実情に合わなかった、大きな制度改革を強行するほどの実力が無かったからなどといった説明がされているようですが、天罰が下(くだ)ったからのかな?と個人的には思ってしまいました。

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

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日本の有力大名、今川家について触れている話「桶狭間の戦いに敗れその後の今川家はどうなったのでしょう」はこちらです。

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