第一次護憲運動とは?中心人物や自由民権運動との違いについても

第一次護憲運動とは

 

第一次護憲運動(だいいちじごけんうんどう)とは西暦1912年(大正1年)に発生した一部の政党政治家や言論界関係者、一般民衆が参加した政治的な目的を実現するために繰り広げられた活動のことを言います。護憲運動は憲政擁護運動(けんせいようごうんどう)とも呼ばれています。この運動に参加した一部の政党というのは立憲政友会や立憲国民党といった政党でした。

この政治運動が掲げた政治目的は短い標語で唱えられていました。「閥族打破(ばつぞくだは)」という標語と「憲政擁護(けんせいようご)」という標語です。

閥族打破の閥族というのは旧薩摩藩や旧長州藩の出身である政治的な発言力を持つ元老(げんろう)と呼ばれる人たちや、元老と強い関係のある政府関係者、官僚(お役人さんのことです)といった人たちの集団を意味しています。閥族打破というのは「このような薩摩、長州閥の政治集団に政治権力を独占させてはならない、牛耳らせてはならない。」ということです。

憲政擁護というのは憲法の目指している政治を行えという意味のようです。ここで言う憲法というのは大日本帝国憲法、いわゆる明治憲法のことです。「国民によって選ばれた衆議院という議会がきちんと大日本帝国憲法で定められているのだから、この衆議院の意見をちゃんと政治にいかすように心がけろ」ということですね。議会の一つ、衆議院(もう一つの議会は貴族院きぞくいんです)の意見がないがしろにされていると運動を行っていた人たちは考えていました。

この第一次護憲運動が行われるようになったきっかけは内大臣(ないだいじん)という天皇の近くで仕える立場についていた桂太郎という人が内大臣を辞職して内閣総理大臣となるような人事が行われたからだという指摘や桂太郎さんの内閣が出来る前の内閣、西園寺公望(さいおんじきんもち)内閣が長州閥の元老、山県有朋(やまがたありとも)という人や彼と関係の強い陸軍勢力のせいで陸軍大臣を選任することが出来ずに退陣してしまったからだという指摘があるようです。

内大臣をやっていた人が首相になるという件ですが、普通ですと天皇の近くで仕え、天皇を補佐する宮内省の大臣、宮内大臣(くないだいじん)や内大臣(ないだいじん)という立場の人は時の内閣の首相以下、閣僚(内務大臣とか外務大臣とか~大臣という立場の人たち)として参加しない慣習となっていたようです。これは天皇近く仕える人が政治を行うということは天皇が政治に直接かかわってしまうことと見なされ、天皇自身に政治的責任が発生し、天皇が責任を追及されて様々な方面から攻撃されてしまうのを防ぐための配慮なのだそうです。しかしそのような配慮によって出来ている慣習を破り、内大臣だった桂さんが首相になってしまうことは大変問題がある。そう考える政治家の人たちが大勢いたようです。

 

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第一次護憲運動の中心人物は

 

よくこの護憲運動で名前があがるのは当時立憲政友会に所属していた尾崎行雄(おざきゆきお)さんと当時立憲国民党に所属していた犬養毅(いぬかいつよし)さんです。この二人が協力して運動の為の団体を作り第一次護憲運動を行っていきました。

尾崎行雄さんは当時までに西暦1898年(明治31年)に誕生した大隈重信内閣で文部大臣を担当したり、1903年以降1912年まで東京市の首長も担当するなど政治家としての経験が豊富な大変有名な人物でした。

犬養毅さんは護憲運動までの間に尾崎さんが演説内容で攻撃されて辞任する共和演説事件(きょうわえんぜつじけん)の後に後任として文部大臣を担当したり、その後立憲政友会が藩閥勢力と関係を強めることに対抗するために集まった衆議院議員が作った政党、立憲国民党に所属し中心的な存在として政治家活動を続けていました。

 

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護憲運動と自由民権運動の違い

 

自由民権運動の場合糾弾していた対象は当時民衆からは好き勝手な政治を行っているように見えた少数の政府高官でした。大久保利通さんや伊藤博文さん、井上毅さん、黒田清隆さんなどなど、有名な方たちです。結局薩摩藩出身の人や長州藩出身の人が多かったのですが肥前藩出身の人たちもいましたし、薩長閥勢力という言い方までは出来ないかもしれません。自由民権運動の途中からは薩長閥に絞られていくようにも思いますが。

また自由民権運動で求められていたものは当初ですと憲法の制定や議会の開設でした。その後は言論の自由や集会の自由、不平等条約の改正や国民に課せられた税負担の軽減(地租負担の軽減)も運動要求の中に加えらえていったようです。

上記のように護憲運動でも糾弾する対象は藩閥勢力ではありますが、求めるものは憲法に基づいて存在している議会の意見をもっと政治にいかすようにすることや藩閥勢力は政治を牛耳るなということですから、この点が民権運動とは異なっているようですね。民権運動のほうが求めていることがより細かな政策で具体的であるような気もします。

 

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今回は第一次護憲運動について取りあげてみました。二個師団増設問題で退陣した西園寺内閣の後の時期に大変盛んに行われた政治運動のようですし、政党関係者だけではなくたくさんの国民が関わった活動のようですから国民側からの働きかけとしてやはり重要な出来事なのではないでしょうか。

この運動が起きたきっかけとして桂太郎さんの立場が宮中から政府内に移ったということを理由にしたという指摘が多くある一方、陸軍の西園寺内閣に対する姿勢が理由で政党内閣が倒れたことが理由だという指摘があることを知りました。別の視点があることを知ることが出来たのは収穫でした。

この運動が起きる前に衆議院の大きな勢力(立憲政友会)が支持していた西園寺内閣なのに、長州閥の山県有朋と関係の強い陸軍から陸軍大臣を出すことを拒否されてしまって陸軍大臣が空席となってしまい、その結果西園寺内閣は退陣してしまいます。これを理由に運動が盛り上がったということであれば当時の人たちにとってもこの事件が大変異常な出来事として映ったということなのでしょうね。陸軍が「陸軍大臣にはこの人がいいですよ。」と推薦するならまだしも、「内閣が陸軍の意見を受け入れないなら陸軍は大臣を出しません。」といって内閣を倒すのですから。

藩閥勢力側にも藩閥勢力側なりの道理があるのでしょうが、雑に議会勢力を扱うと、こういう強い反発に遭うよということを象徴した出来事のように思います。この運動による結果については別の記事で取りあげたいと思います。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

護憲運動関連記事「西園寺内閣で発生した二個師団増設問題とは?山県有朋の動きも」はこちらです。

護憲運動関連記事「第二次護憲運動とは?運動の原因や内閣の対応についても」はこちらです。

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