長屋王と聖武天皇はどういった関係だったのでしょう

長屋王と聖武天皇の関係

聖武天皇(しょうむてんのう)と言えば奈良時代に東大寺の大仏を造るよう指示を出した天皇としてとても有名な方です。墾田永年私財法(こんでんえいねんしざい(の)ほう)という、条件は付くものの開墾した農地はずっと開墾したその人の一族のものとしていいですよといった土地に関係する有名な法律を出した時の天皇でもあります。長屋王(ながやおう)という人は皇族のかたです。奈良時代の政権で高い位のお役人として政治の実施に関する影響力を持っていた人物だと言われています。この方は長屋王の変というご本人の名前がつく有名な出来事の当事者であり、非常に残念な亡くなられかたをされた人として知られています。聖武天皇と長屋王。このお二人はどういった関係にあったのでしょう。聖武天皇にとって長屋王は重要な家来ということになりますし、父親のいとこという間柄でもあります。長屋王は家来という立場でしたが、いつも聖武天皇にハイハイと従うようないわゆる「イエスマン」ではありませんでした。長屋王さんは聖武天皇の重要な僕であったはずですが、本人の意図とは全く別に後に聖武天皇と対立する状況に追い込まれてしまいます。

スポンサーリンク

親戚

聖武天皇も長屋王も同じ皇族にあたる方々なので親戚なのは当たり前ですが、少し補足してみます。長屋王さんの父親は高市皇子(たけちのおうじ)というかたでした。そして聖武天皇の父親は文武天皇(もんむてんのう)というかたです。この文武天皇の父親は草壁皇子(くさかべのおうじ)というかたです。何人か人物が登場しましたが、この草壁皇子と高市皇子というお二人は天武天皇のお子さんで兄弟の関係になります。そのため文武天皇と長屋王のおふたりはいとこ同士ということになります。文武天皇のお子さんが聖武天皇ですので、長屋王から見ると聖武天皇はいとこのお子さんにあたるのです。

天皇の重臣

長屋王は聖武天皇が天皇に即位する神亀(じんき)元年、西暦724年よりもずっと前、和銅二年、西暦709年以降朝廷のお役人として活躍していた人でした。その後有能だったということでしょうか、昇進していきます。聖武天皇が即位する三年前に右大臣となり、聖武天皇が即位したときには左大臣となりました。右大臣も左大臣も天皇の重臣であることに変わりはありません。どちらも当時の政権の最高機関、太政官という組織の重要な役職です。序列で言うと左大臣のほうが右大臣よりも上ということになっていました。太政官内で左大臣の上の立場の役職は太政大臣しかいません。朝廷内ではもちろんその上に天皇が君臨するわけですが、とにかく左大臣という立場は大変高い地位の役職だったということになります。長屋王は重職の立場で聖武天皇の治世を支えることになりました。

スポンサーリンク

諌めるようなこともあったようです

長屋王は聖武天皇に対し何でも従うというわけではなかったようで、規則を守るためには聖武天皇が出した命令についても撤回を求めることもあったようです。聖武天皇の母親に対して尊敬の気持ちを込めるために用いる名称について一度聖武天皇が出した指示を朝廷の規則にはそのような呼称は存在しないという理由で変更させたりもしています。辛巳事件(しんしじけん)などと呼ばれる出来事です。その母親が藤原家出身のかただったそうで、この件で藤原家の人々と長屋王の間でそれまでよりも関係が悪くなったものと推測されます。

長屋王の変

政権内で活躍していた長屋王。しかし彼について良くない噂が広がります。聖武天皇と光明皇后の間で生まれた息子さんが生後一年足らずで亡くなった後の話だそうですが、噂の内容は長屋王が聖武天皇のお子さんを呪い殺したというものでした。また長屋王は反乱を起こそうとしているといった内容で聖武天皇のもとに密告があり、聖武天皇の命令のもと軍が長屋王の邸宅に派遣され、長屋王は包囲されてしまいました。このような事態となり長屋王は自殺してしまいます。この長屋王の自殺の件は「長屋王の変 ながやおうのへん」と呼ばれています。

スポンサーリンク

今回は長屋王と聖武天皇の関係について一部取りあげました。長屋王という皇族のかたがなぜ自殺することになったのか、長屋王の変が起きた理由を調べてみたいと思ったのですが、長屋王と聖武天皇の関係について一般的に注目されているようですのでこのようなテーマの記事にしてみました。このお二人の関係、最後は非常に残念な形となってしまいました。実際長屋王という方が反乱計画を立てていたという具体的な証拠が出ているわけではないようで全く根拠のない話で追い詰められてしまったという見方が多いです。気の毒ですよねぇ。呪い殺したという噂や反乱計画ありとの密告があった背景には藤原家の関係者がいたという指摘が多く、権力闘争の側面があったようです。大きな政治権限を持っているという状態って不都合な点が思い浮かびにくいですが、権力のある立場を狙う人からは嫉妬されたり反感を持たれたりと良いことばかりでは全然ないということがこの長屋王さんの話で示されているような気がします。政治権力と近い場所に身を置くと思わぬことに巻き込まれかねないわけですから考え方によっては恐ろしい話ですね。

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

聖武天皇のおこなったことについて触れている話「聖武天皇が指示した遷都はどういった順番だったのでしょう」はこちらです。

別の時代、中央政治から外された人物のお話「菅原道真さんが大宰府に左遷となったのはなぜなのでしょう」はこちらです。

関連記事

ページ上部へ戻る