江戸時代の天皇と将軍の関係はどうなっていたのでしょう

江戸時代の天皇と将軍の関係

 

江戸時代、徳川家康さんが将軍になった慶長8年、西暦1603年から大政奉還がおこなわれた慶応3年、1867年までの間も当然京都には朝廷がありましたし、そのトップとして天皇もいらっしゃいました。鎌倉時代や室町時代のように江戸時代も天皇と将軍が存在していたわけですけれど、江戸時代は天皇と将軍の関係はどうなっていたのでしょう。江戸時代の将軍の権限はとても強く、朝廷の在り方についても様々に口を出してはばからないほどでした。ただ幕府が現役の天皇から天皇としての立場を奪ったり、幕府の意向に背いたことを理由に時の天皇を死に至らしめるような、そのようなことが出来るほど天皇を軽んじるようなことはしていなかったようです。形式的には将軍という立場は天皇に任命されるもので、将軍になることによって全国に存在する様々な武将、武士を統制することが出来る根拠となるので江戸幕府としては徳川家の人間を将軍という立場に任じる天皇に対してそれなりに尊重する必要はありました。天皇が将軍に任命するのですから形式から言えば将軍は天皇のしもべです。天皇は将軍と形式的には主従(主が天皇、従が将軍)の関係でしたが、実質的には将軍率いる幕府が天皇や朝廷に関して干渉し天皇の行動を規制し、天皇の権限が縮小されていました。天皇は将軍に比べ格上だけど将軍にとても束縛されて政治的な面での自由度は低かったということです。

 

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禁中並公家諸法度

 

幕府が天皇を束縛していたということを示す象徴的なものは、やはり禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)という法令の存在なのではないでしょうか。禁中というのは天皇がお住いになっている所を意味する言葉だそうです。公家はお公家さん、貴族の人たちのことですよね。帝並公家諸法度という名前にしていないというのは、そうするとあまりにも幕府側がおこがましいということになってしまうからなのでしょうか。この法令の中では朝廷内の序列や朝廷が武士に官位を授ける行為や摂政や関白といった朝廷内の重要な役職に誰を据えるかといったこと、元号の決め方、僧侶に対する権威の付与などといった本来朝廷の領分に関することについても幕府が口を出しています。他の勢力に天皇や公家の権威を利用させないためにこのような縛りが設けられたという指摘があるようです。

 

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時代によって変化もあるようです

 

朝廷と江戸幕府の間で取り次ぎ役を果たす朝廷の役職に武家伝奏(ぶけてんそう)というものがあるそうですが、この役職には公家の方が選ばれていました。誰がその役職を担当するか決めるにあたって時代によって変化があるようです。江戸時代に入ってしばらくは幕府がこの人を武家伝奏にするようにと人事を決定し朝廷側はそれを受け入れるという流れだったようですが、江戸時代の半ばには朝廷が誰を武家伝奏に据えるか決めて幕府がその決定を認めるということになり、江戸時代末期には幕府が武家伝奏の人事に口出しすることが出来なくなっていたのだそうです。それまではこの人はお断りしますというようなクレームをする余地は幕府にあったそうですが幕末にはそういうことも出来なくなりました。こういう人事面での変化を見ると江戸時代の中でも時期を経るにつれて幕府側の権限が少しずつ弱まっていったということがうかがえます。

 

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今回は江戸時代の天皇と将軍の関係について一部取りあげました。幕府側が朝廷の守るべき規則を設定するわけですから、江戸時代に入ってしばらくは力関係で言うとやはり幕府が上回っていたということなのでしょう。こういった構図が歴史の授業でも教わった内容のような気がしますが、江戸時代を通じ一貫して朝廷がペコペコするばかりでは必ずしもなかったということのようです。実際に武力を用いて全国を平定した武将たちが現役で存在していた頃は幕府に従い、そういった人たちが世を去ってしまった後はだんだん朝廷の権威が強まって幕府もそんなに強く出ることは出来なかったというような感じでしょうか。武力で他の勢力を抑えて国をまとめた人たちが鎌倉時代以降政治をするわけですが、鎌倉幕府も室町幕府も江戸幕府も武士の頂点に立つような人間が朝廷を亡ぼして自分が君主の座につくということはしませんでした。長い歴史の中でそのような価値観を持ち実際に天皇家を亡ぼそうという人物が出なかったのはすごいことのような気がします。それくらい時代を通して天皇の権威が強かったということなのでしょう。一方で実質的な政治権力を持つ武士勢力の勢いは栄えたり衰えたりと、どんどん変化していきます。天皇、朝廷の権威が衰えなかったのはどうしてなのでしょう。権威というのは時を積み重ねるほど強まるものなのでしょうか。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。    <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

幕府の権勢が以前に比べ衰えていると透けて見える話「江戸幕府将軍である徳川家茂公が上洛した理由について」はこちらです。

幕府が朝廷との協力を模索する動きについて触れている話「老中安藤信正公のすすめた公武合体とは何なのか調べてみました。」はこちらです。

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