太平洋戦争という呼称はいつ日本で主流になったのでしょう

多くの日本人が太平洋戦争という呼称を使うようになったのはいつ

日本の歴史、第二次世界大戦が発生し、終結したあたりの歴史について関心を持たれてこのページに来られた皆様、こんにちは!この記事では大日本帝国がアメリカ合衆国やイギリスと戦った戦争の呼称(こしょう)である「太平洋戦争 たいへいようせんそう」がいつから多くの日本人によって使われるようになったのかについて私なりに書いてみたいと思います。日本がアメリカやイギリスなど(アメリカやイギリス以外にも日本は蒋介石が率いる中華民国の勢力とも戦いましたし、終戦間際にはソビエト連邦とも戦いました。日本が連合国との間で戦争の終結を意味する平和条約、サンフランシスコ講和条約を結んだ時には署名国は40カ国以上にもなりました)と戦った戦争が昭和二十年、西暦1945年の8月14日にポツダム宣言受け入れを通告し大半の戦闘が実質的に収束したわけですが、その頃の日本ではこの戦争を「大東亜戦争 だいとうあせんそう」と呼んでいました。しかし第二次世界大戦が終わってからある時期を境にして多くの日本人が太平洋戦争という呼び名を使うようになったそうです(呼び名が変わった頃の実体験が無いので「なったそうです」としか言えませんが)。以来「大東亜戦争」という呼び名は政府も使わなくなりましたし学校教育でも使われなくなりました。現在でも日本がかかわる第二次世界大戦の呼び名は日本史の教科書を見てみると「太平洋戦争」となっています。ただ個人的な感覚では以前よりもはるかに大東亜戦争という呼び名を耳にする機会は増えました。話が少しそれました。すいません。ではいつから「太平洋戦争」という呼び名が主流になったのかですが、これについては敗戦の年である昭和二十年、西暦1945年の9月~12月以降という見方が多いようです。

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占領されていた状態の日本で

ポツダム宣言を受け入れたことによって日本国には連合国の軍隊(大抵はアメリカ軍でした)が占領を目的にどんどん入ってくることになりました。天皇陛下や当時の日本政府の方針は連合国による占領を認めると決まっていましたので日本軍も日本の警察も日本の一般国民も連合国の占領軍に対し基本的に抵抗することもありません。日本は占領されたものの、日本国内の政治は形式上引き続き日本政府がおこなうこととなっていました。しかし日本政府による政治が連合国側の望む方向と異なる場合も含め、連合国側から日本政府に対し色々と指示が出されることとなります。直接指示を出す機関は日本国内に設置された連合国軍最高司令官総司令部(英語表現の頭文字をとってGHQと呼ばれていました)でした。占領中の大半の期間、GHQのトップをダグラス・マッカーサー氏が担当しています。GHQによる日本政府に対する指示が出され始めたのは敗戦の年の9月に入ってからです。日本の軍隊を解散させたり日本の軍需産業の活動を停止させるといったことから指示は始まったようですが、それだけにとどまらず宗教や教育、労働分野、言論分野などなど様々な分野に関する命令を日本政府に出していきました。戦争で負けた立場ですので日本側も従うしかありません。そういった9月以降GHQから出されたものの中に大東亜戦争という呼称に関する指示も含まれていました。昭和二十年の12月15日に「神道指令 しんとうしれい」と一般に日本で呼ばれる、正式名称「国家神道・神社神道に対する政府の保証・支援・保全・監督ならびに弘布の廃止に関する件」という指示がGHQから出されています。このGHQの出した文書の中で「大東亜戦争」をはじめとして複数の表現が国家神道、軍国主義、国家主義と密接に関係するとして公文書での使用を禁じる命令が出されることとなります。GHQから命令が出されてから、公文書に限らず世の中に出回る出版物や放送内で用いられる表現の中から大東亜戦争という呼称が消えていったようです。その代わりに用いられるようになった呼称が「戦争」や「太平洋戦争」でした。12月15日の神道指令以前にも大東亜戦争という呼称に関連する指示はGHQから出ていたようです。

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昭和二十年9月

先ほどの神道指令よりも三か月前、9月にGHQからは「プレス・コードにもとづく検閲の要領にかんする細則」という指示が出ていました。この文書の中で大東亜戦争など複数の用語について使用を避けるようにとの具体的な指示がされていました。プレス・コードというのは同年、昭和二十年の同じ月、9月にGHQが新聞社や出版社に対して順守させるために出した規則です。占領軍による占領政策に対する新聞での批判などはこのプレス・コードによって出来なくなってしまいました。このプレス・コードに違反したとGHQに見なされた新聞社は業務停止命令を受けてしまうといった罰則を科されてしまったため、マスコミ各社も従わざるを得なかったようです。12月に入り新聞各社はGHQが作成した、彼らの意向に沿った歴史観に基づく記事、「太平洋戦争史」を掲載するようになります。この太平洋戦争史は合計10回にわたる連載記事でした。読者が持っていたであろう戦前の日本政府が広めた歴史観を否定し占領軍を支持させるのに役立つ政治宣伝的な効果が期待できるため、このようなことをGHQは新聞各社にさせたのでしょう。一紙だけではなく新聞各社が「太平洋戦争史」を掲載したのですから新聞を定期購読している多くの日本国民が目を通すことになりますので、おのずと「太平洋戦争」という用語が人々の頭の中に刷り込まれていくことになったと思われます。こうして日本政府も日本国内の民間企業も逆らうことのできない存在、占領軍、GHQが実質的に日本を支配していた占領時代の早い時期に、占領側の明確な意図によって大東亜戦争という用語が官民を問わず日本社会からはじき出されて、その代わりとして太平洋戦争という呼称が広く使用されていきました。

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今回は「大東亜戦争」という言葉が姿を消し、太平洋戦争という表現が広められたという歴史について一部取り上げました。戦前の出来事を講演しているかたの動画を見る機会がありまして、その中で大東亜戦争という表現はかつての日本政府が定めた名称なのだから事象を説明する際に大東亜戦争を使用したところで何の問題もないはず。なのに占領状態から独立を果たして何十年も経過している今の日本でも大東亜戦争という表現が避けられているというのは何なのでしょうねといった趣旨の発言をされていたように記憶しています。代わりに太平洋戦争という名前が使われてきたわけですが、いつから太平洋戦争という名が主流となったのかその動画がきっかけで気になったため今回のようなテーマの記事を作ってみた次第です。昭和四十年代に生まれた私も当然のように第二次世界大戦については太平洋戦争という名称で義務教育、高等学校でも学んできましたし、学んでいた頃はとっくに独立を回復していました。小さい頃(小学生の頃だったと思います)、政治団体が国政選挙が行われていた時期に新聞に掲載していた宣伝広告を目にする機会がありましたが、正確に覚えていませんけれど、そこには「大東亜戦争は正しかった!」といった主張が述べられていたように思います。そういったものを目にして初めて大東亜戦争という表現に触れた、そんな記憶があります。それと同時にその広告宣伝を見て、その政治団体の人たちが「戦前を肯定するおっかない人たちだ」という印象を持ったように記憶してもいます。ということで私も連合国側の洗脳工作にまんまとはまっていた一人だった、ということなのかなぁと今から振り返ると感じます・・・。そう考えると使用する表現というのは印象操作も出来るわけですし軽視できないなと感じました。

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

今回の記事ではジョニーさんによる写真ACからの写真を使用させていただいております。

GHQトップだった人物の解任について触れている話「マッカーサー司令官が解任された理由は何だったのでしょう」はこちらです。

日本国の憲法の内容が変更された出来事について触れている話「大日本帝国憲法を改正することになった理由は何なのでしょう」はこちらです。

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