近衛文麿という人物に大変人気があった理由は何なのでしょう
近衛文麿という人が人気だった理由
日本の歴史、とりわけ第二次世界大戦以前の日本の歴史に関心を持たれたり、過去の時代で有名だった人物に関心を持たれてこのページに来られた皆様、こんにちは!この記事では大東亜戦争、太平洋戦争を始める以前の日本の世の中で複数回内閣を組織して政権を担当した人物、近衛文麿(このえふみまろ)さんというかたがおられましたが、彼がどうして多くの国民から人気があったのかについて私なりに書いてみたいと思います。このかたは昭和十年代、西暦でいうと1930年代後半から1940年代の初めころまで三回にわたって政権を担当した人です。第3次近衛政権が総辞職、退陣したあとは大東亜戦争、太平洋戦争に突入する東条内閣、東条英機さんが内閣総理大臣となる政権が誕生することになります。大東亜戦争、太平洋戦争が始まるギリギリまで政権を担当していた近衛さんですが、この方が政権を担当してから中国大陸で中華民国の蒋介石政権の勢力が率いる軍隊との大規模な戦闘が始まってしまいました。そして近衛さんが首相の時に蒋介石政権と講和を成立させることは結果的に出来ていません。もちろんそれ以降の東条内閣も小磯内閣も蒋介石政権と講和が出来ず昭和二十年の終戦の鈴木貫太郎内閣に至ってしまうわけですが。この過程で多くの日本国民が苦しみ、命を落とすという痛ましいことになります。大戦争の引き金になる中国大陸での蒋介石勢力との戦闘をうまく収められなかった近衛さんなのですが、この方は当時の日本国民から大変な人気があったと言われています。中国大陸での大規模な戦闘を収められず、さらにアメリカとの戦争を回避する交渉にも結果的に失敗して日本国民を大戦争に至る道へ結果的には誘導したことになる人物とも言えるように思いますが、どうしてそんな人物が当時の国民の人気を集めたのでしょう。文句のつけようのない家柄、外見、主張する意見の内容が多くの国民にうけたことが関係しているという見方は多いようです。
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並みの華族ではない、有名な先祖の末裔
近衛(このえ)という言葉を聞くと、軍隊の中でも優秀な人たちが配属されるであろう王室や皇室をお守りする役割も担当するような精鋭部隊、近衛師団(このえしだん)なんかを思い浮かべられる方もおられるかもしれません。陛下のお近くに仕えてお守りするといった感じの意味合いがあるでしょうか。そういった高貴、感じのいい印象も含まれるということなのかもしれませんが、そのような姓を名乗る俳優さんもおられました(私はそれほど馴染みのある世代ではありませんが近衛十四郎という芸名の時代劇俳優のかた(本当の姓は目黒さん)が戦前戦後に大活躍されています)。近衛文麿さんの場合はもちろん芸名ではなく本家本元であり、さかのぼりますと平安時代に権勢を極めた藤原家につながります。その中でも特に有名な藤原道長さんもご先祖にあたります。ということで日本史でも出てきますが大宝律令で有名な藤原不比等(ふじわらのふひと)さんや蘇我氏を滅ぼす乙巳の変(いっしのへん)、その後の政治の大幅な刷新である大化の改新(たいかのかいしん)に大きくかかわる中臣鎌足(なかとみのかまたり)さんにも行き着きます。明治維新後には政府の方針で貴族階級として華族(かぞく)制度が設けられることとなりましたが近衛家はその華族の中でも最上級である公爵家(こうしゃくけ)に指定されます。ちなみに華族階級の序列は上の階級から順に公爵(こうしゃく)、侯爵(こうしゃく)、伯爵(はくしゃく)、子爵(ししゃく)、男爵(だんしゃく)となっております。近衛文麿さんはその近衛公爵家の当主の立場でした。文麿さんの母親は江戸時代の大名、加賀藩のお殿様(前田家)のご息女にあたるかたでした。前田家は華族制度への移行に伴い侯爵家の華族となっています。近衛文麿さんは公爵家の当主と侯爵家のご息女の間にお生まれになった人物なわけで、血筋という観点ではものすごい立場ということになるでしょう。戦前の一般民衆からすると「雲の上の人」ということにやはりなりますよね。近衛さんは当時の日本人の中では珍しく身長の高い方でした。総務省統計局のホームページにある「統計データ」→「分野別一覧」→「日本の長期統計系列」→「目次」→「第24章保健・医療」→「特定年齢,男女別身長」によりますと昭和十年、西暦1935年の時点での24歳の男性の平均身長は164.2cmだったそうです。160cm台半ばが普通の日本人男性の身長だった時代(ちなみに現在の一般成人日本人男性の平均身長は170cmくらいだそうです)、近衛さんは身長180cmもありました。顔だちも端正で、そういった容姿などが理由で女性に人気があったと言われています。
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英米べったりではない立場
近衛さんが文筆活動や政治活動をしていた時代の日本の人々は必ずしもイギリスをはじめとした欧州の国やアメリカに対しそれほど友好的な考え方をしていたわけでもないようです。アメリカ社会では日本人に対する差別が顕在化していましたし、アメリカの政治の世界でも日本人がアメリカに移民することが困難となる仕組みが設けられてしまうという出来事もありました。この移民制限の仕組みを可能とする法律はジョンソン=リード法と呼ばれています。日本からの移民だけを制限したわけでは全くなかったのですが、日本でこの法律は「排日移民法」という呼ばれ方をしていました。この法律に対する日本社会の受け止め方が推し量れます。また中国大陸で発生した満州事変後に誕生する満州国という国についてもイギリスをはじめとした欧米列国が承認しない姿勢を見せ結果的に日本は国際連盟という枠組みから脱退することとなりました。連盟を脱退したのち、日本側の全権であった松岡洋右(まつおかようすけ)さんは帰国した際、大勢の賛同する日本国民に出迎えられたと言います。これはつまり多くの日本国民が満州国を承認する動きを強く支持していたことを示しますし、必然的に満州国を承認しないイギリスなどの諸国に対し反感を持ったものと思われます。そのようなご時世の中、近衛という人はかつて、大正七年、西暦1918年に「英米本位の平和主義を排す(えいべいほんいのへいわしゅぎをはいす)」という論文を「日本及日本人(にほんおよびにほんじん)」という雑誌に掲載、発表していました。イギリスやアメリカの利己的な側面を批判していると思われる内容も含んでおり、アメリカやイギリスと協調することの多かった当時の日本政府の立場とは違っていることもあって反米感情、反英感情の強い時代には近衛さんの主張する内容が多くの日本人に共感を持って受け入れられたようですし、基本的にマスコミから叩かれるような存在ではありませんでした。
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今回は近衛文麿という人物の人気について一部取り上げました。これまでも記事で日本史の重要な出来事を取り上げるにあたってこの人物の名前も出しておりました。先日林千勝(はやしちかつ)というかたが講演されている動画を拝見する機会があったのですが、その中でこの近衛文麿という人物について世間の見方とは異なる近衛文麿像を提示されていて、個人的には強く印象に残りました。過去に第二次世界大戦前の出来事について記事にできるテーマは大概記事にしていたのですが、私なりに近衛公についての記事を作ってみたくなり、今回の様などうして人気があったのかといった切り口で記事にしてみました。実際に当時の新聞、雑誌を確認できているわけではありませんのでこれは完全に推測なのですが、言論機関から批判、糾弾されている人物が国民から絶大な支持を得るなどということは普通あり得ないことのように思います。大変な人気だったということから考えれば近衛という人はマスコミのネガティブキャンペーンなどとはそれほど縁のない立場だったのでしょう。血統的に高貴な立場だったからマスコミもそんなに叩けなかったという事情があったのかについてはよくわかりません。しかし皇室についてのマスコミの扱いは当時格別だったでしょうし国の方針としても華族は当然尊重される人々でしたでしょうから現在の一部雑誌で取り上げている、一般庶民が聞き耳を立てるような皇族の方々に関する否定的な印象を植え付けることを狙っているかのような低俗な記事を当時の華族の人々に関する話題で作ることは余程のことでなければ無かったでしょうし、基本的には批判対象になりにくい立場だったのではないでしょうか。政党政治の腐敗が問題視されることも多かった時代ですので政党政治家が政権を担当することにうんざりしていた国民が、金権腐敗などといった印象からは遠い存在で、貴族出身の人気の高い人物に期待を持つということもあったのかもしれません。
今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。 <(_ _)>
※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。
今回の記事ではMr.アルプさんによる写真ACからの写真を使用させていただいております。
近衛内閣が中華民国と戦闘している中で表明した内容について触れている話「近衛文麿総理大臣の第一次近衛声明とは?声明後の動きも」はこちらです。
近衛内閣が出した、第一次近衛声明とは異なる声明について触れている話「東亜新秩序とは?秩序建設を説く近衛首相の声明についても」はこちらです。
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