江戸時代のポルトガルとの貿易はどうなっていたのでしょう

江戸時代のポルトガルとの貿易

 

欧州の国、ポルトガルと交易がおこなわれるようになったのはポルトガル人が漂流後たまたま種子島にたどり着いてからだというのは歴史の授業でもよく扱われる話です。鉄砲が伝わったことで重視されている1543年の出来事です。それ以降ポルトガルとの商売は続くこととなりました。豊臣秀吉さんが国内を統一したあとも、ポルトガルが貿易と一緒にやりたがっていたキリスト教の布教に規制を設けたりしましたけれど、貿易をやめるようなことはしませんでした。秀吉さんが亡くなって徳川家康さんが国内を仕切るようになり江戸幕府が開かれ(西暦1603年、慶長8年)江戸時代になります。江戸時代に入ってからもポルトガルとの交流はしばらく続きました。ただ秀吉さんの時と同様キリスト教が広がり過ぎることを心配して江戸時代でもキリスト教に関する規制が実施されていきます。それでもキリスト教布教と貿易を切り離してポルトガルとの貿易は続けたいと幕府側は当初考えていました。1612年から幕府によるキリスト教の規制が設けられていきますが、この時期にポルトガルとの交易を中止するようなことはしていません。この対応で貿易を続けることを期待した幕府ですが、どうやらポルトガル側はキリスト教布教を徹底的に自粛していたわけではないようで、密かにキリスト教関係者を日本に入国させ隠れて布教するような動きもあったようです(当時マカオにポルトガルの役所があったそうでそこに幕府からキリスト教宣教師を日本に派遣しないよう要請していたにもかかわらず)。

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そういったことがありキリスト教勢力の拡大を抑えたい幕府はポルトガル側のやり方に不満だったことでしょう。ポルトガル側が一般の日本人と接触することが出来ないようにするため、幕府はわざわざ長崎に出島を作るようなこともしました。出島を作ったのは1636年です。しかしこの頃キリスト教信者が多数関与する反乱事件、島原の乱が発生し幕府もすぐに鎮圧することが出来ませんでした。島原の乱が発生したのは1637年(寛永14年)。出島を作った次の年です。島原の乱が収束するのは発生した次の年1638年でした。反乱を鎮圧するためにかなり手を焼いた幕府はキリスト教の影響を非常に問題視したということなのでしょう。島原の乱が収まった翌年の1639年に幕府はとうとうポルトガルとの関係を断っています。貿易で得る利益と天秤にかけたのでしょうが、キリスト教勢力の拡大はそれ以上に脅威だったということですね。ポルトガルとの貿易はここで途絶えます。ポルトガル側はその翌年1640年に貿易再開を求めて日本に使節を送りますが幕府側はその派遣された使節関係者を処刑するという非常に強硬な対応をおこないました。幕府がポルトガルを非常に嫌っていたことがうかがえます。

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ちょっと時期が経過しますが1673年にイギリスが50年ぶりに貿易を再開したいと幕府に求めてくることがありました。しかしこの時幕府はイギリス側の求めを断りました。その理由の一つとして当時のイギリス国王がポルトガル王室関係者と結婚したことでポルトガルとの関係が深まっていたことが指摘される場合もあるようです。ポルトガルと仲良くする国とも関わりたくないという考えだったのだとすれば、幕府のポルトガル嫌いも相当なものということになりますね。1639年以降はずっとポルトガルとの関係を断ち続ける幕府ですが、江戸時代末期になると開国に方針を転換することで欧米列強と国交を結ぶことになります。アメリカ、イギリス、フランス、オランダ(オランダは元々交易していましたが)、ロシアといった国々は当時日本と国交を結んだ国々としてよく取り上げられますけれど、この頃ポルトガルも日本と国交を結んでいました。和親条約や修好通商条約を締結し貿易もおこなわれるようになります。これ以降は日本とポルトガルの間で目立ったトラブルが起きることも無く、江戸時代は終わりを迎えることになります。

 

ポルトガル商船からの輸入品

 

江戸時代に限った話ではありませんし、他の国の商船が日本に持ってくる商品と重なるものも多かったでしょうけれど、中国産の生糸や絹織物、陶磁器、薬やヨーロッパ産の毛織物や鉄砲、火薬、時計、ガラス、東南アジア産の香辛料や香木、動物の皮、錫(すず)や鉛(なまり)などの金属、他にもパンやカステラも伝わってきたことは有名です。カボチャやジャガイモ、トウモロコシといった農産物が交易によって伝わってきたという指摘もあるようです。日本は銀や銅を輸出しました。

 

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今回も途中で幕府との交流が切れる国について取りあげました。幕府によるキリスト教の規制に関して取りあげた記事の内容とかなり重なってくる話になりました。江戸時代中のポルトガルとの貿易について一定の関心があるようなのでこのようなテーマで記事を作ってみた次第です。ポルトガルに対する幕府の姿勢は1640年の対応を見てもわかりますが非常に厳しいですね。イギリスが貿易再開のための要請をしてきた時に連絡してきた関係者を処刑したなどと言う話は無いようですから、国に応じて幕府も対応を変えているようです。島原の乱とポルトガルの関係について、あったのかどうなのかについてはわかりませんが、もし関係があったのなら(ポルトガルが島原の乱を起こした勢力と関係していたというのなら)、幕府が厳しい姿勢で臨むのも無理もない話という気はします。はっきりした証拠に触れているわけではないので推測するくらいしか出来ませんが。こういった状況ですとキリスト教布教をせずに貿易だけするという方針にしていたオランダの存在というのは当時の幕府にとって非常に都合がよかったのでしょうね。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。    <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

江戸時代のキリスト教禁教について触れている話「江戸時代にキリスト教が禁止された理由は何なのでしょう」はこちらです。

欧州の他の国と江戸幕府のかかわりについて触れている話「江戸時代にはイギリスとの貿易ってどうなっていたのでしょう」はこちらです。

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