星亨さんらが主張した大同団結運動とは?三大事件建白運動も
大同団結運動とは
大同団結運動(だいどうだんけつうんどう)は西暦1886年(明治19年)以降に強まった政治運動です。
西暦1884年に自由党は解党し、立憲改進党も中心人物が離党してしまい目立った活動が出来ない状態となっていました。自由民権運動をリードするこの二つの勢力が衰えてしまい、国会の開設が近い将来実現する中、憲法制定のみならず、言論、集会の自由や税金の軽減、不平等条約改正を主張するような民権運動は発言力を弱めていました。
この状況を変えていくことを目的に、解党された自由党に以前所属していた星亨(ほしとおる)さんや中江兆民(なかえちょうみん)さんは民権運動に関わっていた旧自由党の人たちや立憲改進党の人たちに違いを乗り越えて協力して活動していこうという意味で「小異を捨てて大同団結する」よう訴えかけました。
星さんらの呼びかけに有力者の後藤象二郎さんが応じ、この活動に加わることになります。懇親会や演説会を開き盛んに大同団結を訴えるようになりました。力が弱まっていた自由民権運動の様々な勢力が団結するよう訴えるこのような運動が大同団結運動と呼ばれています。
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三大事件建白運動とは
三大事件建白運動(さんだいじけんけんぱくうんどう)は西暦1887年、立法機関に建白書が提出されたのをきっかけに強まることとなった政治運動です。
当時の立法機関である元老院(げんろういん)に建白書を提出したのは民権派の活動家であった片岡健吉さんというかたでした。片岡さんは建白書の中で言論や集会の自由、地租の軽減つまり税金の軽減、他国との対等な外交関係の回復を求めました。三大事件建白運動の「三大事件」とはこの三つの項目を指しています。片岡さんの建白書が提出されたことをきっかけに日本全国各地から同様の主旨の建白書が提出されるようになりました。
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片岡さんが建白書を提出したのには理由があります。この頃不平等条約を改正するよう主張していた勢力にとって見過ごすことの出来ないことが起きていました。日本政府が他国と外交交渉を行う中で日本側が譲歩し、条約を日本にとって不利な内容に変更する方針となってしまっていたのです。具体的には外国人が制限なく日本各地で居住、旅行が出来るようにすることや裁判所で法律を適切に扱えない日本人の裁判官に不当な裁判をされる危険性があるという理由から外国人の裁判官も採用するといった内容だったようです。(それまで日本国内で外国人が居住や旅行、外出ができる範囲は限られていました。)
政府内でもこのような条約内容の変更に反対意見が出たそうです。民権運動家たちが条約の変更内容を知ることでその動きに反対する活動を行い、片岡さんの建白書提出が象徴的な出来事となって運動が強まっていきました。条約内容の変更は政府の中で反対意見があったため交渉が中止され現実のものとはなりませんでした。三大事件建白運動は条約改正が中止されたことや政府の弾圧によりその後勢いを失っていくこととなります。
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今回は大同団結運動や三大事件建白運動を取りあげてみました。当時民権運動の激化や政府による弾圧の強化、支持層の没落、党内の分裂、政党同士の中傷といったことを理由に自由民権運動が衰退傾向にありました。この時期に過激な路線を選ばなかった民権運動家たちはどうやって状況を好転させようとしたのかをこの二つの運動を調べることで多少知ることが出来たように感じます。
大同団結運動がある程度広がったということは、民権運動の勢いが弱くなっていった当時の状況に至って、批判し合っていた旧自由党側も立憲改進党側もそんなことをしている場合ではないと考える人が増えたということなのでしょうね。しかし大同団結の動きが強まったものの政府の弾圧はそれに応じてさらに強まる結果となります。
旧自由党と立憲改進党の関係者に協力するよう呼びかけた人たちのお一人である星亨さんについては、私はこれまであまり名前を聞いたことがありませんでした。弁護士をされていたかたなのだそうです。その後衆議院選挙に立候補され議員にもなり、衆議院議長という議院の要職に就かれた経歴も残されています。福島事件の河野広中さんも刑期が終了後衆議院議員になられましたし、民権運動の熱心な活動家は当時の制限選挙のもとでも選挙民から支持されていたんですね。
この頃は後藤象二郎さんの名前は出てきますが、大同団結運動でも三大事件建白運動でも板垣退助さんの名前は出てきませんね。ただ議会が開設される前に再び政党を作ったり議会開設後は議員として活動することになります。組織した新たな政党の名前は「自由党」がつく「立憲自由党」となります。
今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。 <(_ _)>
※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。
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