山形有朋内閣と民力休養、政費節減求める民党とのせめぎ合い

第一次山県有朋内閣

 

第一次山県有朋内閣(だいいちじやまがたありともないかく)は西暦1889年(明治22年)12月24日から1891年(明治24年)5月6日まで日本政治のかじ取りをしました。この山県さんの前の政権は黒田清隆(くろだきよたか)さんの内閣でした。「超然」という言葉を使った人です。黒田さんが総理大臣の時代、不平等条約改正内容が民衆の強い反発を招き、改正交渉で失敗しています。外務大臣が襲撃される事件も発生しました。条約改正問題がきっかけとなって黒田さんの内閣は辞表提出し退陣しています。突然の退陣となり内大臣の三條さんという人がさしあたってという意味で2か月だけ内閣を組織しましたが、すぐに山県さんに交代しています。

山県さんは長州藩出身の人です。内閣を担当するまでに陸軍大臣、内務大臣のような立場である陸軍卿、内務卿を経験し政府軍の司令官のような立場で西南戦争の指揮をとったことでも有名な人のようです。内閣の発足前はヨーロッパを視察していました。

この内閣では大蔵大臣に松方財政で有名な松方正義さんが就任し文部大臣に箱館戦争で政府軍と戦った榎本武揚さんが就任、逓信大臣には民権運動で名前が出ていたはずの後藤象二郎さんが就任しています。

 

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民力休養、政費節減とは

 

第一回帝国議会(第一議会)は西暦1890年11月から開かれました。立憲自由党や立憲改進党といった政府に反対の立場の政党、いわゆる「民党(みんとう)」は政府の出した予算案を巡って政府と対立しました。その時に民党側は「民力休養みんりょくきゅうよう、政費節減せいひせつげん」と訴えています。民力休養というのは税金を安くして国民の経済的な負担を減らし一般国民の生活を安定させようという意味が込められた公約です。政費節減というのは政府が毎年使うお金が年々膨れ上がっているので、使う額を減らそうという意味が込められた公約です。軍事力の整備のためにかなり国のお金が使われていたそうです。民力休養、政費節減はスローガンのようなものだったのでしょうね。

 

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内閣側の行動

 

山県有朋さんたちの内閣側は予算案について「こういう理由でこれだけの予算を組む必要があるんです。」と議会に対し説明をすることとなります。軍事面については国境を守るためにも、朝鮮半島のような日本国の利益に強く関わってくる地域を他の勢力から守るためにも軍を増強する必要がある。だから多くの金が必要ですという主旨の説明をしたことが有名なようです。しかし民党側はそれで了承したわけではなかったため、内閣は切り崩しを図りました。当時農商務大臣を務めていた陸奥宗光(むつむねみつ)さんが立憲自由党の一グループを説得し予算案に賛成するようはたらきかけました。このグループが賛成側についたことで予算案が成立しています。ただそのグループとの妥協として政費節減を実施せざるを得なかったそうです。

この第一議会で相当参ってしまったのか山県さんは第1議会が終了してから辞表を提出する結果となりました。この内閣は1891年5月6日で終了します。

 

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今回は国会が開設されて初めての内閣について取りあげてみました。政党勢力がある程度議席を獲得した衆議院という議会が存在する場合、政治を行うにあたってこれまでと比べどのような違いが出てくるのかよくわからないこともあり、調べてみようと思いました。

議会が出来上がったことで政府の好きなように予算が組めなくなってきたということのようですね。議会勢力の多数派の了解が無ければ政府は国のお金を使えないという枠組みが出来てしまい、山県さんは予算案に賛成してくれる勢力が多数派になるよう策を使わなければならなくなりました。これまでであれば予算の使い道を正当化して強硬な反対が民権運動側からあれば条例のような規則を盾にして反政府側を弾圧していました。でも議会勢力だとそんなわけにもいかないですよね。勝手が違うことで政府側も困ったという所でしょうか。

多数派工作はこの第一議会に限った話では全くなく、その後の議会でも行われる話なのでしょうね。より多くの勢力の意見を踏まえた予算案、法案に修正していくのならばより多くの民意を反映することにつながるのでしょうから、金銭の関わらない多数派工作なら何も後ろ指を指される話ではないでしょうけれど。陸奥宗光さんがどのような手を使って立憲自由党の一グループを切り崩したのかについては、詳しいことはよくわかりませんでした。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

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