長州藩の幕末の藩主はどなただったのでしょう
長州藩の幕末の藩主
長州藩(本来萩藩(はぎはん)という名前だったようです)は幕末、江戸時代末期に江戸幕府を倒す勢力の中心になる藩の一つですが、混乱していたこの時期に長州藩で藩主だった人は毛利敬親(もうりたかちか)さんというかたです。京都で長州藩の軍が会津藩や薩摩藩と戦った元治元年、西暦1864年の蛤御門(はまぐりごもん)の変の時も朝廷から長州藩は敵だとされて幕府が率いる大軍に攻め込まれそうになり、長州側が従順な姿勢を示して事態が収束した第一次長州征討や慶応2年、1866年に始まり実際に幕府側の大軍と戦闘に至り幕府側を撃退することに成功した第二次長州征討、明治元年、1868年の鳥羽・伏見の戦いの時も敬親さんが藩主でした。藩主に就任したのは天保8年、1837年でした。なので、長州藩が戦乱の渦中にあったころ、敬親さんは既に30年近く藩主を務めていたことになります。明治期に廃藩置県という制度改革によって全国の藩は廃止されることになります。明治4年、1871年の話です。長州藩も例外ではなく県に置き換わりますが、この長州藩が無くなる頃藩のトップ(この頃は知藩事「ちはんじ」と呼ばれていました)だったのは敬親さんではなく、次の代のかた、毛利元徳(もうりもとのり)さんでした。
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敬親さんは明治2年、1869年に藩主を引退、隠居されていたのです。藩の土地や領民を朝廷にお返しするという制度改革、版籍奉還(はんせきほうかん)よりも前に引退したそうなので最後の藩主は毛利元徳さんであり敬親さんではありません(隠居時期と版籍奉還がおこなわれた時期はかなり近かったようです)。敬親さんは長州藩の13代目の藩主だったそうですが、12代目の藩主の方、毛利斉広(もうりなりとう)というかたのお子さんではなく11代目の藩主だった、毛利斉元(もうりなりもと)さんのお子さんです。12代目の藩主、斉広さんが藩主就任後非常に短い期間でお亡くなりになり、敬親さんが18歳という年齢で13代目の藩主に就任することになりました。幕末の混乱期に長州藩のトップだったということで有名な方ではありますが、幕末の混乱以前の藩内の政治改革で成功したということでも知られている方のようです。ただ長州藩の藩政改革に関しては敬親さんの名前よりも村田清風(むらたせいふう)さんという家臣の方の名前のほうがよく取り上げられる印象が強いです。
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藩の方針を一貫させることは難しかったようです
長州藩は幕府を倒そうと考える勢力の中心として有名ですが、敬親さんの統治時代に公武合体、朝廷と幕府が協力して日本の困難な状況を克服しようという方針を支持していた時期もありました。しかし藩内の家臣の間での権力闘争の結果、幕府ではなく朝廷が政治をおこなう世の中に改め、武力で他国勢力を日本から追い払うべきとする攘夷派が影響力を強めたことで藩の方針を公武合体から変更することを藩主の敬親さんは認めています。しかし攘夷派が主導権を握った長州藩は先ほども少し触れた蛤御門の変で朝廷の敵とされ長州を討伐せよという指示が朝廷から出されるほど追い込まれてしまいます。大規模な戦闘になる前に敬親さんは幕府側の要求を受け入れ幕府に従う姿勢を示し長州藩が取り潰されるのを回避しました。しかしその後高杉晋作さんらが藩内の主導権争いに勝利し家臣内で幕府に従順な態度を取るべきではないという意見が主流となると敬親さんはその意見を採用し、その後は幕府の要請に素直に応じず幕府側による第二次長州征討へ向かっていくことになります。このように幕府と朝廷の関係の在り方や長州藩の幕府に対する姿勢に関して藩内の情勢に合わせ意見を変更するという対応をしていました。このような経緯から時の主導権を握っている家臣の意見に流されるあまり主体性のない殿様という見方もあるようです。
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今回は長州藩の藩主、毛利敬親さんについて一部取りあげました。江戸時代中の有名な方を扱った記事を作ろうと思ってテーマを探していると時代経過順にならず前回は上杉鷹山さんを扱いましたし、その前は坂本龍馬さんの寺田屋事件を扱いましたし、順番が混乱してしまっています。申し訳ありません。幕末期の長州藩のお殿様について一般的に関心があるようでしたので今回はこのようなテーマで記事を作っています。家臣の上申に「そうせい(そうしなさい)」とよく言っていたという理由で敬親さんを「そうせい」侯などと揶揄する話もあるそうですが、敬親さん自身が藩内を二分する意見(幕府打倒か佐幕、幕府を支える側に立つか)のどちらをとるか自らがはっきりと姿勢を打ち出していたら自分は殺されていただろうといった内容を述べられていたそうです。混乱した時期に藩主が謀殺されれば藩の存続も危機に瀕します。長州藩という国を存続するために内心でははっきりとしたご自分の考えがあったとしてもなかなか思うように実際の政治に反映させることが出来ない、難しい状況だったということでしょうか。第一次長州征討時の幕府側の寛大な対応も大きく影響したわけですが結果的には明治の廃藩置県(明治4年、1871年)がおこなわれるまで長州藩は潰されずに存続することとなりました。
今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。 <(_ _)>
※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。
長州藩内の争いについて触れている話「第一次長州征討が終了する頃の長州藩内部で発生した抗争」はこちらです。
毛利敬親さんの名前が出てくる他の記事「異なる藩論だった長州藩内でなぜ攘夷派が台頭したのか」はこちらです。
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